日本明慧
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表と裏


文/大陸の大法弟子

(明慧日本)先日、友達が帰国して海外のすばらしいロマンチックな生活について話していました。その生活は私の夢です。十数年も前から、私はずっと外国に行ってみたくて、でもずっとかないませんでした。出国することができず、執着心も放下していませんでした。私の心の中で、海外は自由な社会であり、中国は闇の鉄幕の中の社会だと思っています。自分はもっと海外で修煉するべきで、そこで存分に自分の才能を発揮し、もっと良く大法を実証することができると思っています。

 すでに十年間の修煉を経て、風雨にも洗練されてきましたが、しかしあの数日間は、私の心がとても落ち着かず、夫の愚痴を言って恨み、友達の境遇を羨んでいました。晩にベッドの上で横たわり、眠りに入ろうとしたところ、ある声を耳にしました。「外国は表であり、国内は裏が如し。あなたにとって、裏の陰にいた方がより安全です。この方が家庭を円容させるにも良いのです」。目が覚めて、とても恥ずかしくない、すべてが分かってきました。十数年来の執着心を一瞬に放下し、すっかりなくなりました。本当に師父の苦心に申し訳ない気持ちでした。

 ある同修は感情的なトラブルが発生して、やはり「人の旦那の方がまし」という欲望のとどまらない観念に左右された原因で、間違った道に陥り、情に左右されて悪い事をしてしまうでしょう。ですから、私はこの問題も皆さんは重視すべきだと思っています。

 外国にいる同修は正邪の戦場の表にいるようであり、自由な社会ではありますが、しかし自由は相対的なものであり、そこにいる同修も銃撃されたり、ごろつきに殴られたりしたことがあります。修煉は、平坦な道ではありませんし、危険と苦しみも存在します。一方、国内の同修は正邪の戦場の裏にいるように、邪悪が表で狂暴きわまりないのですが、しかし正念が強くなって、安全に注意すれば危険を無事に乗り越えることがもできます。危険と安全は修煉者の人心次第であり、邪悪に操縦されているのではありません。海外と国内は、修煉者にとってそれぞれの難しさが存在し、修煉する以上は苦しみに耐えることは避けられません。ただ、実際の状況が異なるだけで本質的に違いはないので、よい事ばかりを見て苦しみを嘗めることを逃避する心こそ人心であり執着心です。

 農村の人は都市の人に羨ましがり、都市の人は海外の人を羨み、独身の人は家族を持つ人を羨み、また結婚している人は人の夫、子供などをうらやましがります。これらはすべて欲張りで、新鮮な変化を求める心、他人を羨む嫉妬心です。ただ「好き、嫌い」という人心、人の情から抜け出し、世間のすべてに淡泊になってこそ、ようやく修煉に専念することができます。おそらく、あなたが人の次元から抜け出ると、どこに住んでも地球上におり、誰と夫婦になってもすべて人間の中にいる夫婦であり、どれだけ良くても悪くてもすべて人間の中の善し悪しで、神の世界とは比べられないと分かるかもしれません。ですから、やはり心を修煉に置き、人間の中の執着を放下して、常人の生活の中のことはすべて縁に任せ、修煉で精進してこそ、ようやく三界から抜け出すことができ、早く円満成就することができます。

 普通、常人は「得られない物が最も良いものだ」と惜しみます。現実的な生存と発展に立脚しなければ、すべて確実にならない妄想です。修煉者にとって、自分が今持っているものを大切にして、確実に修煉に専念することが一番大事です。

 今日の全ての修煉者は、神聖な使命と責任を負っています。私達はどこで生活して、何をするかに関わらず、これはまさに私達が千年も待ち望んだことであり、やっと今日の縁で成り立ったことです。師父は私達に、全面かつ周到に考慮されており、これでも満足しなければ、貪欲が大きすぎます。心を完全に法の上に据置いておらず、人間の中のすばらしい生活を求めるようになります。ですから、私達はただしっかりと自分の持ち場を守り、自分の責任を引き受けてはじめて、衆生の期待を裏切らないようになります。

 2008年9月8日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/8/29/184925.html