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なぜいつも人心にとらわれるのか


文/河南大法弟子

(明慧日本)私は当時、4月25日に法を得たばかりで、迫害が始まった、いわゆる「7.20」の時には、法を得てまだ3カ月しか経っていませんでした。「法を得たのも遅いので、私には同修にあれこれ言う資格などないだろう」と考えていたこの汚れた人心に、今ではひどく後悔をしています。

 集団で法を学び、煉功することは、尊い師父が私たちに与えてくださった修煉の方法です。私は今日まで、ずっと「法を得たのも遅いので、私には同修にあれこれ言う資格などないだろう」とひたすら「人心」にとらわれていたのです。

 同修に顕著な執着があると気づいても、「他の人の執着を口にするのは恥ずかしい。あの人は私よりも早く法を得たのだから……」と考えてしまいます。また、同修に漏れがあると気づいても、「私は法を得たのが遅いから、言っても説得力がない……こういうことは協調人に言ってもらえば済むことだ」と考えていました。同修の皆さんに漏れがあると気づいていながら、また師父の正法の進程に追いついていないと気づいていながら、関係者との交流で思うような効果が見られないと、私はこのように考えていたのです。「仕方がないことだよ……。一人の師父がいらっしゃり、一つの法が在る。しかし、誰かが悟れば誰かが得るもので、やはり悟らなければ得ることなど出来はしないのだ。どうして人の機嫌を悪くしてまで問題点を指摘してあげる必要があるのか」と。

 同修の皆さんに長期に渡る漏れがあっても、私はそれをおぎなうことすら出来ていませんでした。私にはすぐに悪い結果が見えてしまうようで、片隅で隠れて正念を発していました。同修の皆さんに漏れがあっても指摘すらしないで、それだけのことで満足気な気分に浸っていたのです。「力を尽くしてやることはやったじゃないか。誰に話しても聞いてはくれないだろう。しかし、良心に恥じなければそれでよいではないか。他の人は私よりも法を得たのが早かったのだ。だから、それはそれで仕方のないことなのだ」と思っていたわけです。

 旧勢力は残酷なことをしました。というのも、同修が2日間で8人も不法に逮捕され、しかも21人の同修がこれに巻き込まれたからです。2カ所の資料点はひどく破壊され、資金の面、設備の面でも大変な損失をこうむりました。1人が死亡、1人が負傷、3人が行方不明という破滅的な代償を支払う結果になったのです。私は驚愕しました……。そして泣きました……。深く自分を責めました……。そして、このように思ったのです。「自分はなぜ、同修に強く言ってあげられなかったのだろう? 自分にはなぜ、根気というものがないのか? 自分はなぜ、せっかちで怒りっぽいのか? なぜ、同修から『あなたには顕示心がある』と言われるのが怖いのか? なぜ、私には思いがけないような幸せに期待を寄せる気持ちがあるのだろう? 同修と会うときに責任は持てても、慈悲心がないではないか。修煉者にとって、はたしてこれはよいことなのだろうか? 考えてみると、私は本当に恥知らずだった……。私はこれで本当に責任をはたしていると言えるのだろうか」と……。

 同修と切磋琢磨するときに、私はこのように発言しました。「師父のおっしゃることに従い、法に従うことだけが最も大切なことです。尊い師父についていき、法を正すことを押し進め、尊い師父の御心により近く、ついていければいくほどによいのです」……しかし、実際には言うこととやることが、かなりかけ離れていたのです。

 ここまで書いて、私はふと悟りました。私には「責任感」というものがまったくなかったのです! 「将来、どんなことがあっても私は良心に恥じることはしない」……自分の心の中にあったものは、ただこれだけでした。こんなことでは正直、駄目なのです! どこに責任感があるというのでしょう? 残ったものは、すべて心の奥底にひそんでいる私心ではありませんか! 慈悲心があるなどと言っている場合でしょうか! 暗黒の世界に捕われている同修を思うと、自分は本当に恥ずかしく思ったのです……。

 もし、自分に真に慈悲心があり、責任感があるならば、「同修に対する執着」に根拠がないわけがありません。私はこう思いました。「同修に漏れがあることに対して、自分はせっかちで怒りっぽくなっている……。だから、長期に渡って漏れがあっても面倒だと思わないようにしよう。こういうことを恐れること自体、やめようではないか。そうすれば『あなたには顕示心がある』と同修に言われること自体、恐れなくなるはずだ。一人のときに、自分はよそで正念を発することすら出来ていなかった……。それなのに、思いがけない幸せに期待を寄せる気持ちが、まだ自分にはあったというのか……?!」

 もし、真に慈悲心があり、責任感があるならば、長期に渡って存在してきた「人心」に、もうとらわれなくてもよいことになります。もし、自分に慈悲心があり、責任感があるならば、いわゆる「人心」が奇異なそぶりを見せるはずもありません。ですから、このように考えることは絶対によい効果をもたらすはずです。あの時のようなひどい損失をこうむることもなくなるのです。

 私たちは大法の主体です。私は時々刻々、自分に言い聞かせています。「私は師父の弟子で、法輪功を固く信じています。私には、この上ない神としての極まりない威力があります。私たち修煉者は本当に『人心無存』(『洪吟』)です。悪らつな中共には『断末魔のあがき』の機会すらすでになく、『最期の気がふれる瞬間』すら存在し得ないのです。悪らつな中共の解散は、まさに大法弟子の『一念』に在るのです」

 個人の悟りですが、レベルに限度がありますので、同修は誤りを指摘して正してくださいますよう宜しくお願いいたします。

 2008年9月9日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/8/31/185073.html