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観念を放下し師父のお言葉に従い、精進して怠らずに衆生を救い済度する


文/陳汝棠(アメリカニュージャージー州大法弟子)

(明慧日本)尊敬する師父、今日は! 同修の皆さん、今日は!

 神韻芸術団は世界各地での巡回公演で好評を博し、大歓迎されていましたが、表面から見れば、それは役者、楽団、天幕、照明、音響、製作者などが力をあわせることにより収めたもののように見えます。しかし、その中の一員として、それは師父が法を正すことの必然であり、大法の威力であり、師父が自ら設計され、手配され、指導された結果であり、法を正すこの段階で師父が公演という形で衆生を救い済度されることであるとつくづく感じており、それは師父の広大なる慈悲であると思っております。

 その公演に参加させていただくことができて、私はこの上なく幸運であると感じており、本当に感謝の言葉が尽くせません。と同時に、我々の個人修煉もその中に含まれているのです。次は二つの方面から自分の会得を同修の皆さんと交流させていただきます。

 1、内に向けて探したら、トラブルが消えてしまう

 ある公演の途中、一人の演奏者が独奏する時、私の指揮よりリズムが遅れました。私は「追い付いて」という仕草を取りましたが、彼は追い付いてくれませんでした。すると、私は仕草をもっと大きくして催促しましたが、彼はやはり追い付いてくれませんでした。私は非常に腹が立ちました。そして、公演が終わったあと、楽屋の廊下で彼とすれ違って通るとき、彼は私の顔を見もしませんでした。他の人にこのことを話すとき、「彼の間違いではないか、何で認めないのか。」と怒りが解けませんでした。二回目に彼に逢った時、彼のそばにいる同修に「何で私の指揮に合わせてくれないのか、これは一体どういうことだ」とまたしても不満を諭しました。しかし、彼は一言も返事してくれず、その場を去ったのです。

 翌日、楽団が集団で法の学習を終えたあと、私はまた彼を叱ろうと思いました。しかし、ある同修の「実は彼はとても辛いのよ」という一言で私はさっと目覚めて、師父のおっしゃった法理が直ぐ頭に浮かんできました。「内に向かって探さなければならず、外に向かって探してはいけません。」(転法輪)私は自分のことを恥ずかしく思うようになり、「わかった。今すぐ彼と話し合いに行きます。」と言いました。

 私は彼に謝った後、彼も本音を打ち明けてくれました。「指揮より遅れたと気づいたとき、もう1.5拍子遅れたのです。その時にもし無理に追い付こうとすれば、かえって全体の効果を悪くすると思いますが。」それを聞くと、なるほど、観衆にとっては、踊りと音楽の組み合わせの流暢さが第一位で、私のようなやり方だと、確かに全体的な効果を壊してしまうと言うことが分かりました。そして、どうしても自分の指揮に合わせるようにしたい裏には、楽団が絶対的に自分に従わなければならないという考え方が潜んでいると気づきました。つまり、公演の成功に責任を負わなければならないと言う堂々とした理屈の中には自己中心、自分の権威を守ると言うような不純な心が混じっているのです。それは私心ではありませんか。それを除去しないと、常人と何の区別があるのでしょうか。この雑念が指揮に混じりこむと、音楽も純粋でなくなり、人を救い済度する効果も弱まってしまうのです。それが分かると、楽団の大法の学習が終わった後の交流会で、私はその同修を叱るのではなく、自分の不足を探すようにしました。そうしたら、その同修も指揮に合わせなかったと言う間違いを反省しました。また皆はこのことを通してこれからこのようなことに逢った時の解決策を見つけるようになり。楽団全体のレベルもこれにより高められました。

 このことを通して、相手を傷つけたのではないかと常に考えるようにして、自分を修め、内に向け探すことこそトラブルを無くす万能の鍵であると言うことをよく会得しました。

 2、観念を放下して初めて、正真正銘に師父のお言葉に従うことができるのである

 神韻芸術祭の中での舞踊音楽と舞踊の関係について、師父がはっきりと教示されておられます。その大体の意味は音楽が舞踊に合わせるべきであり、指揮も舞踊に合わせるべきであると言うことです。師父は何度もこの法理を教示してくださいました。しかし、私はやはり分かるようで分からなかったのです。なかなか自分の観念を捨てられず、舞踊が音楽に合わせるべきではないか、できるだけ舞踊の各段落のスピードを考えながら指揮すればいいだろうと思いました。それに、次の段落に移行する際に、間違ったらたいへんだと思って、いつも楽譜や演奏者をじっと見ていました。しかし、問題もそこから出たのです。下稽古するときに、舞踊の監督者に「三人舞踊のところからやり直そう」と言われたら、三人舞踊の音楽がどこから始まるか分からなくて困ってしまいました。それから、楽隊ばかり見ていたものですから、何度も下稽古したにもかかわらず、「昇った蓮」の中で迫害されて死んだ法輪功学習者をいつ仙女が迎えに来たのかも分からなかったのです。

 私が指揮するときに、いつも作曲家の表そうとする境地や音楽のスピードにだけ気を使っていましたが、舞踊のリズムにあまり気を使いませんでした。ある時、楽隊と舞踏と合わせて下稽古したとき、音楽がなかなか舞踏に合わず、役者も揃って踊ることができませんでした。それで私の解決策としては、監督に音楽を早めるか遅らせるかを聴くことであり、役者の踊りを見ると言う根本を忘れてしまったのです。去年のクリスマスの出演の直前のある下稽古の時、またしても音楽と舞踊と会わなくなりました。その時、師父は役者を見なければならない、それは交響楽を指揮するのではなく、役者‘の踊りを見なければならないと言うことを教えてくださいました。師父にこのように直接注意された以上、もう目覚めないわけにはいきません。

 内に向けて探してみたら、楽譜や演奏者から目を離さないのは観念を変えていないからだと思います。つまり指揮の合図がなければ、演奏者がうまく演奏できないと思い、実は彼らの能力を見下げていたのです。また音楽に馴染んでいるから、音楽に従って指揮すると自信があるが、踊りに従ったら、心細かったのです。しかし、音楽が踊りに合うかどうかを考えず、ひたすら役者を自分に従わせようとするのは、自己中心ではありませんか。もうこの心を放下して、役者のリズムに合わせて指揮しなければならないと覚悟しました。

 しかし、音楽を思うがままに踊りに合わせようとすれば、楽譜を全部暗誦しなければならないと思います。決心はしましたが、ちょっと自信はありませんでした。二十何曲もあり、一曲が何分間、中にはまたスピードの変化やプロットの変化があります。確かに難しかったのです。私に師父の要求に従って行う願望があるわけか、直ぐに楽隊の同修が交流に来ました。実は分からせるようにヒントを与えてくれたのです。「師父が大声でおっしゃいましたが、実は問題を解決する功も同時に」と彼女が言ったら、「出されたのです」と、私と彼女が口を揃えて言いました。この話で私の楽譜を暗誦する自信が倍増しました。

 暗誦してみたら、実はそれほど難しくないと分かりました。楽器ごとに楽譜があり、一目で二十行を見なければなりませんが、何しろ下稽古を通して、音楽のリズムや楽器の割り振りに馴染んでいるものですから、‘大事なところをよく覚えておけば、もう大体暗誦できるのです。毎日ちょっとずつ時間を作って暗誦したら、二週間くらいかけて、この二十数曲をほとんど暗誦できるようになりました。

 急に楽譜を離れると、やはり心細かったのです。念のため、私は大事なところを紙切れに書いて、忘れたところがあれば、この紙切れをさっと見てから指揮するようにしました。しかし、今度はまた紙切れが離れなくなりました。ちょうどそこへ、師父はよく録音を聞くようにと教えてくださいました。そこで、師父のご教示に従い、音楽を聴きながら楽譜を見るようにしたら、直ぐに紙切れを見ずに、出演する時にただメニューを目の前において、楽譜を暗誦しながら指揮することができるようになりました。たまに忘れたところがあっても、演奏者が楽譜に基づいて演奏しているのですから、私は彼らの演奏に従って指揮していけばいいのです。

 確かに楽譜を完全に暗誦して初めて舞踊の出演を見ることができ、そして、それに合わせて音楽を指揮することができるのです。

 それから、私が感じたのですが、役者によっては‘、舞踊に対する表現も毎回毎回違うし、そして、同じ役者でも例えば昼と夜の調子が違ったり、体力の状態が違ったり、即興出演があったりして’、楽隊はその変化に従い演奏するようにしなければならないのです。音楽と舞踊の取り合わせがとてもすばらしいと観衆に評判されていますが、それは他でもなく我々舞踊者と楽隊が皆師父のご教示に従い行ったことから成し遂げた結果に過ぎないと思います。

 巡回公演する時に、「楽隊にとっては、役者の出演が第一位だ」と師父はもっとはっきりと教示してくださいました。

 師父がこんなにはっきりと教えてくださったのに、なぜ私はなかなかうまく執行できないのでしょうか。よく考えてみれば、別に敢えて師父が教示されたとおりにやろうとしないと言うわけではなく、観念に阻まれたからです。観念に左右されていて、自分は師父の教示されたとおりに行ったと思っていましたが、実は間違った観念に従って行っていたのです。だから、頭をはっきりさせ、回り道をした後、内に向けて探し、観念を放下して初めて、「己の愚かな所見に限定された枠の中で永遠に這いまわるしかありません。」(転法輪)と言う状態から抜け出し、師父の按配された道を歩むことができるのです。

 今回の巡回公演で楽譜を暗誦することができるようになったのは一種の突破とはいえ、それも音楽を舞踊によく合わせるためのひとつの条件に過ぎません。本当に舞踊によく合わせるようにするためには、舞踊の韻律をよく理解できるようにしなければなりません。神韻は普通の韻律ではなく、それは本当に神の韻律であり、中には特別な内包があり、入神の演技なのです。つまり、舞台の上では私たちが出演しているかのように見えますが、実は皆師父が行われているのであり、師父の無数の法身が行っているのであり、我々の出演や音響を通して人を救い済度すると言う最も素晴らしいエネルギーを放っているのです。その中に含まれた内包はとても人間の言葉では総括できないのです。

 最近、ある主役の舞踊者から「どうも我々の舞踊の韻律が分かるようになったらしいね」と言われました。その話は私にとって非常に大きな励ましとなりました。確かに、私はまだほんの少ししか分からないのです。私の目標は舞踊の分かる玄人になることであり、それも舞踊の指揮者にとっては当たり前のことなのです。それに、その目標をなるべく早く達成するようにしなければなりません。と言うのは師に手伝い法を正し、衆生を救い済度する時間があまりにも差し迫っているのです。

 師父はよく若い役者や演奏者の清らかさを褒めておられます。この空間から見れば、清らかさは美であり、真の美であり、そして最高の美なのです。そして、よその空間では、清らかさは巨大な正のエネルギーであるかもしれません。神韻芸術祭の出演が善美を極めるようにと師父が要求されておられますが、その中にはすべての出演者の清らかさが含まれていると思います。私はよく思っていますが、もし私が若かったらなんといいだろう。年を取ってしまい、修めなければならないものがあまり多すぎるのです。しかし、年はどうしようもありませんが、清らかさは大法の中で修めることによって成し遂げられるのです。神韻芸術団は一つの溶鉱炉でもあり、我々はその中で試練され、ますます清らかになれるに違いありません。こういう意味では、技術面の向上よりも修めることにより成し遂げる清らかさのほうがもっと大事なのでしょう。

 楽隊が毎回出演する前に全体で暗証する師父の「助法」を持って私の発言を終わらせていただきます。

 助法

 衆生を度せんと發心し

 師を助けて世間を行く

 協して吾れ法輪を轉がし

 法成って天地行う

 師父、ありがとうございます。皆さん、ありがとうございます。

 (2008年ニューヨーク法会発言原稿)

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2008/5/26/179212.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/6/8/97973.html