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慎重なのか、それとも執着なのか

(明慧日本)法を正す最終段階が近くなり、多くの困難を乗り越えて来た同修たちは、歩んで来た道をことのほか大事にしていますが、次のような現象が現れ、大法のことを行なう時にあまり精進しなくなりました。

  同修一人ひとりの次元の高さや能力は違っており、強要してはいけません。真相を伝える時に少々慎重でも構いませんが、最終段階に至り、大法のことに多く危険を冒してやりたくなくなり、必要ではない面倒を引き起こせば、次元に影響を及ぼさないかと恐れるなら、私はこの中に多くの問題が隠れていると思います。

 同修の一部は、潜在意識の中で次のように無意識に考えているかもしれません。大法のことを行なうのは危険で、毎回危険を冒しているようだ。多くやれば行なうほど事故が起きそうだが、やらないと次元に影響を与えるから、しかたなく控え目にやろうと。このような考えは私心、恐れる心、安逸を求める心、狡猾心だと私は思います。このような心で大法のことを行なうのは「私」のためであり、純ではなく、このような心は邪悪に乗じられやすいのです。控え目にやれば安全だというのは、まさしく逆になっています。漏れるものがあるから、邪悪に見えてしまうのです。

 さらに、私はこのような考えは師父と大法を信じておらず、人間の観念で問題を見ており、理性から神の思考で考えていないと思います。大法のことを行なうのは危険ではありません。私個人の考えでは、本心から他人のためにするのであれば、また、法に符合するか否かを法理で判断し、さらに、極端に走っているか否かを考え、これらに正しく対処すれば、心配する必要はありません。たとえ、事柄の一部が能力に達していないようであっても、行なっている間に師父は我々を助けてくださるのです。同修たちは次のようによく言っているではありませんか。師父の話は法であり、師父は私たちに行なわせることが最も良いことであると。

 私たちが良く行なわないからこそ、危険が生じるのです。法を良く学び、常に考えが法の中にあれば、何ものも恐れることはありません。師を信じ、法を信じていれば、事柄の一部には危険があるかもしれませんが、やってみれば、何よりも神聖であることが分かり、何の危険もなくなります。法を良く学びましょう。人間の殻を取り去れば、危険は私たちから遠ざかるのです。

 同修たちは、法を正すことが最終段階に至っていることを誰でも知っています。また、修煉は厳粛であり、人間の心はいずれも天上に持っていけないことも分かっています。多くの困難を経て、私たちはさらに努力しましょう。隠れている心を見つけ出して捨てましょう。つまり、だれも隠したまま法を正す最終日を待ってはなりません。あれらの汚い狡猾心は、私たちに幸運をもたらすことはなく、人間から抜け出た者こそ神です。少し勇敢になり、さらに一歩を踏み出しましょう。法を正す終りの日に、我々は師父の前で後悔なく、清潔で汚れに染まることのない心を捧げましょう。

 2008年9月11日


(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/9/2/185131.html