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厳しく自分を律する


文/大陸大法弟子

(明慧日本)昨日、学法中に『転法輪』第1講で体得したことがあり、皆さんと交流したいと思います。「異なる次元に異なる法あり」について、私個人の理解は異なる次元に、法が衆生に対する要求と基準が異なっており、たとえば人に要求する基準は「仁、義、礼、智、信」などがあると理解しました。「煉功してもなぜ功が伸びないのか」を学法した時、その中にこんな話がありました。「七情六欲をすべて抱えた常人をそのまま上へ昇らせ、成佛させることは、皆さん考えてください、可能でしょうか? その人が大菩薩を見て、なんと綺麗だと邪念が生じるかも知れませんし、嫉妬心が取り除かれていないために、佛とトラブルを起こすかも知れませんが、このようなことが許されるものでしょうか?」(『転法輪』)。

  私は突然目覚めました。覚者にとって、このような念があってはいけません。色心と嫉妬心が少しでもあったら高い次元の基準に相応しくなく、即時に落ちてしまいます! しかし私達は修煉の中で何回かこのような邪念を抱いたのではないでしょうか? 私達の表面にはすこし法に同化していない部分があるかもしれませんが、しかし私達は神への道を歩んでいるのです! なぜ神の基準に従って自分を律しないのでしょうか?

 修煉は厳粛なことで、次元が高ければ高いほど要求も厳しくなります! 人間の次元で人を殺したり放火したりすることは、実際に行動を起こしてやっと犯罪になるのですが、神への道では、一つの不正な念が起こっただけで次元が落ちてしまいます! 私個人の体得ですが、師父は私達に三つの事をしっかりおこなうことを要求しておられます。自分をよく修煉することは一番根本的な、きわめて厳粛な事です。もし自分が心を純粋にして正しく修めなければ、どれほど多くの正法をしても何にもなりません。衆生を済度することは自分をしっかりと修煉した上での偉大な威徳になるのです。

 大法弟子は法を実証しています。夜学習者達の交流文章を読んだとき、とても啓発されました。「大法弟子は大法を実証することしかできません、別のものを実証するのではありません!」。個人的な考えでは「実証」という言葉の意味は自分の思想、言動を以ってあることを実践、証明することで、私達が実証すべきことは「真・善・忍」であり、法が認めない事を実証することはできません。

  たとえば私達が毎日頭の中に思っていることが法であり、煉功していて、言い出した言葉も法に合致し、行動も法に認められた事であれば、私達は法を実証していることになります。私達が三つの事をするのも法を実証することです。しかし多くの人は気付かないところで別のものをも実証しています。たとえば怨恨、色欲、嫉妬、闘争心、自我、恐怖心、怒りなどなど、これらの要素が現れたら、私達はそれに動じられて、頭の中に思ったもの、口で言い出したもの、行動に現れたものすべてがこれらのよくない要素に動じられてしまいます!

 それでは、この時私達はこれらのよくない要素を実証していることになるのではないでしょうか? それを認めていることに等しいのではないでしょうか? 個人の悟りですが、私達はこれらのよくない要素に妨害されたとき、それを強化しないように、たとえ、すぐに徹底的に放下することが出来なくても、それを認めてはいけません。それを薄めていくべきです。もし私達がそれを認めないで、排斥すれば、それらの要素は大きい作用を発揮することができなくなります。なぜなら承認されないものは人に無理に押しつけることができないからです。

 2008年9月18日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/9/10/185570.html