日本明慧
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内に向かって探すことがすべての鍵


文/大陸大法弟子

(明慧日本) 私は流浪生活をしている大法弟子です。ある日、大法の事を夕飯前にすべて終えましたので、大家さんである同修は私に胡瓜炒めを作るように言いました。私は2日前に他の同修が持ってきたヘチマがあるのを見つけ、そしてすこし熟しすぎて腐り始めていることに気付きました。そのまま捨ててしまうわけにはいけないと思い、硬いところを削り、炒めて食卓に並べました。同修がそのおかずを一口食べたとたん、「硬くて食べられないよ」と言ってテーブルに置きました。私はそれを見て「あなたは柔らかいのを選んで食べてね」と言いました。彼女はもう一度食べましたがやはりテーブルに置き、箸をほうって「油が勿体無いよ!」と言い残し饅頭ばかりを食べました。私も気にかけないようにしていました。食事の後、彼女のご主人が仕事を終え帰ってきましたので、私は席を譲り(大法の)仕事をしました。

 翌日の朝食時、同修は硬い表情のまま昨日のヘチマを並べました,見るとやはり自分が食べたあとの様子そのままで、昨日はご主人にも食べさせなかったと気付きました。そこで私の心に「かたっ」として、やはり自分が間違っていたと思いました。表面から見れば、生活を簡素にして浪費しないのは正しいし、法の面から見ても、適材適所で正しいのですが、間違っていたのは、私が同修のために考えておらず自分の意のままに事を進めたことは法と乖離したことです、そして自分の腕前がよいとの執着心がありました。ここまで理解すると、とても恥ずかしく、もくもくと一日3回に分けてやっとあのヘチマを食べ終えました。

 その翌朝、同修は2つのおかずを作りとても親切に私にこれを食べてあれを食べてと勧めました,明らかに彼女も自分の不足を見つけ正しましたので、われわれの空間場が一辺に和みました。

 2008年9月23日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/9/15/185919.html