日本明慧
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修煉者の角度から難儀、難関を見る

(明慧日本)すべての修煉者にはそれぞれ自分の難関と難儀があると思います。これらの難関、難儀の一部は師父が私たちに按排されたものですが、ある一部は旧勢力に無理に押し付けられたものだと思います。一部は見分けられますが、見分けられないものもあります。出所がどうであっても、たとえ旧勢力に無理に押し付けられたものであっても、全面的に否定しなければなりません。しかし、すでに存在している難関、難儀には内に向かって探すことが要求されます。突破する過程で、自分の心性と境界を高め、最終的に円満成就に近づいていかなければなりません。

  最近、数多くの同修が難関に対して、どうしていいのか困りはてているのを見て、とても辛く感じています。私はこれを機会に、自分の考えをここで書いてみたいと思いました。同修の参考になれば幸いです。自分の次元は限られていますので、偏っているところはご指摘をお願いいたします。

  一、大勢の同修は、無意識に自分をまだ常人と見なしていることに気付きました。ある同修は、雑穀を摂っているこの身体はまだ業を滅していて、病状が現れるのではないかと思っているようです。しかし、実はこれはまだ病気を放下出来てないことだと思います。乳白体状態になれば病気にかかることはなく、ただ業を滅するだけなのです;また、ある同修は、常人といれば常人の考えや考え方を持っているはずで、そうでなければ常人社会にいられなくなると思っています。これもまた精進出来ない自分への口実だと思います。師父がその心を取り払ってくださるのを待つのではありません。修煉している私たちが、自ら積極的に常人の心を取り除かなければならないのです。しかも、私たちのたくさんの業力は、師父が代わりに引き受けてくださいました。残りの僅かな業に対しては、心性さえ高めれば難関は乗り越えられるものと思います。修煉の過程で、修煉に関係のない内容は割り込むことも出来ません。それには大法弟子の向上を口実にしている旧勢力の迫害も含まれます。毎回の難関、難儀に会うたびに、自分の至らないところに触れたのでしょうが、その過程で向上出来たかどうかを反省し、傍観者の視点から見るのであれば、心は動じなくなります。また、師父の法に照らせば、難関もやさしく思えるようになります。しかし、多くの同修は違います。自分の境界を超えることが出来たとしても、師父に感謝するわけでもないようです。むしろ、境界を超えたことに興奮覚めやらず、難関を乗り越えた後に居心地がよくなったことを、これ幸いと感じているようでもあります。両者の間には、大きな違いがあると思います。なぜならば、後者はこの過程で向上することが出来なかったからです。

  二、苦しみを恐れる心ですが、修煉すれば苦しみに遭うのです。でなければ修煉が出来ません。三界にこの要素があるからこそ修煉出来ます。この迷いの俗世間の中に身を投じているからこそ、修煉出来るのです。この身と心が苦しみに遭ったとしても、修煉者たる泰然とした態度で相対します。不平不満を抱かず、悲しまず、不憫がらないのです。師父は「吃苦を当に楽と成す」とおっしゃいました。常人社会で自分にとって都合の悪いものは、すべて自分の執着と情に関わっています。考えてみてください。私たちは何をしに常人の世界にやって来たのですか? 天上にはこのような低次元の不自由さはないのです。天体の衆生を救い済度するために人間界に降りてきた当時のその一念は、どれほど慈悲なるものだったのでしょうか。しかし、現在持っている多くの考えは、輪廻の中で押された烙印なのです。修煉してこれらを取り除き、大法に同化すれば、ようやく自分を超越出来、自分が相対している蒼穹を救い済度することが出来るのです。

  三、ある日、妻は私に聞きました。「ここ何年も、あなたが怒ったり、何かに悩んでいる姿を見たことがないけれど、いつ怒ったり悩んだりするのかしら?」 よく考えてみれば、ここ数年、いろんなことがありました。邪悪の妨害、肉親の情による戸惑い、名利の誘惑、次から次へと止まることなくやって来ました。しかし、本当に内に向かって探すことを習得してからは、いかなることが現れても……たとえ喜ばしいことや悲しいことであっても……自ら引き起こしたことについて、道理に反することは一切追求しなくなりました。まずは自分が引き起こした物事の原因、自分のどのような心が動かされたのかを見つけます。そして、その心が名、利、情によるものなのかどうかを判断します。この心のどのようなところが「真・善・忍」と符合していないのかを、はっきりと見分けるのです。見つければ比較的突破しやすくなります。明るみに出た心を滅しやすくなるわけです。同時に、そのことに遭遇したのも無駄ではなかったのだと理解することが出来ます。そして今後の自分の行動に注意を払い、これらの心を取り除くのです。実は、往々にして、その心が見つかるや否や、それは消えてしまったのです。解決方法を考える暇さえなかったほどです。後で分かったことですが、その事柄が出現したことで、目的はすでに達せられていました。つまり出現した事柄は、すでに存在する意味すらなくなっていたのです。こういう面白いケースもありました。あることが起き、まだ問題が見つからないうちに内に向かって探し始めていると、直ちに事態が好転したのです。まだ見つかっていない執着心を探している最中でしたので、私は少々残念に思いました。今度こそチャンスをつかんで、まだ見つかっていない執着心を見つけ出そうと心の中で決心しました。ですから、この数年はもう何事も恐れません。難儀も怖くはありません。みんな良いことですから、いつも嬉しそうな顔でいられるのです。修煉することだけが真実です。具体的に言えば、人生を楽しむためのいわば演劇と見なすことが出来るかどうかなのです。もしそれを演劇と見なすことが出来るなら、修煉を押し進めることなら喜んでこなせます。また私自身、自然と物事への対応も楽になったのです。

  四、数日前、ある光景が見え、この文章を書くきっかけとなりました。ある巨大な黒い球状の霧の中に、無数の大法弟子が閉じ込められていました。大法弟子は非常に小さく、その中の何人かは黒い霧のボールから抜け出しました。瞬間、大法弟子は比べられないほど大きく荘厳になり、佛、道、神の姿に変りました。抜け出した大法弟子は自由闊達に神のなすことを行い、ボールの外に出た大法弟子もどんどん増えていきました。しかし、ボールの中にいる弟子に対しては、助けてあげることが出来ませんでした。この光景から、同修に対する手助けは、個別の問題に対する悟りの方法を参考にしてもらうやり方もあるのだと分かりました。自分のすべてを真の修煉者と見なしている人や、自分を正々堂々とした神と見なしている人は、世間をめぐり、師父について法を正すとき、自分を頼るしかないと思います。ここで師父が話されたお言葉をもって、皆さんと互いに励ましあいたいと思います「本当に修煉しようとする人にとって、非常に易しいもので、高くて届かないようなものではありません」。「本当に修煉を決意した人にとっては、もし耐えることができ、さまざまな利益を前にして執着心を捨て去ることができ、そういうものに淡白になれたら、こういうことを真に実行できれば、難しいことは何もありません」。………『転法輪』より

  以上は個人の浅い認識です。書きたいことも数多くありましたが、残念ながらすべて書き出すことは出来ませんでした。どうかお許しください。

 2008年9月26日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/9/2/185130.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/9/24/100899.html