日本明慧
■印刷版   

執着をなくした後の心の安らぎ


文/湖北省の大法弟子

(明慧日本)私は1997年に大法と巡りあえた古い弟子です。修煉前は長年、疾病を患っており、病気治療の目的をを抱いて大法の修煉に入りました。学法を通じてやっと世の中に本当の修煉法があると知りました。私は驚き、そして喜びました。私は人生の答えを見つけ、修煉に対してとても夢中になりました。

 当時、人間の情がとても重く、修煉の最初に情の関門がやって来たため、非常に苦しい修煉でした。特に1999年7.20以降、さらにつらい苦しみが重なり、しばらくの間はほとんど毎日激しく泣いていました。心の中で師父を呼び、「師父、どこにいらっしゃいますか? 師父の経文『圓満成就に向かって』が発表された後、私はまた時間に対して執着し始めました。いつも自分の予想した時間になっても、迫害がまだ終わっていないと、とても失望していました。このような繰り返して、結果的に師父と大法に対して疑い、時には甚だしきに至っては、また抵抗する感情が噴き出してきます。しかし、私の修煉する心はやはりとても固いので、『明慧週刊』の同修の文章を読んでから、これらは良くない心だと分かりました。そして、発正念してそれを排除したものの、根絶することができず、そのためずっと修煉の中でとても苦しく、とても疲れていました。

 今回、悪党によるオリンピックが開かれ、私はまた迫害の終結に対して望んでいました。オリンピックの開幕時、私の状態はとても悪く、いつも不満の情緒が湧いてきました。思想の中で、たくさんのよくない考えが噴き出してきました。三つのことは相変わらず行っていますが、しかし気持ちは鬱憤がたまり、身体も悪化し始めました。表れた状態としては、元気がない、足が重い、記憶力が低下して度忘れが激しくなるなどです。常人の事をしている時にいつも厄介なことが起きます。

 この時、私は内に向かって探しました。どうしてオリンピックが駄目になることを望むのですか? これは闘争心と嫉妬心ではありませんか? 私を迫害したら、あなたのオリンピックも駄目になるべきだという考えは常人との戦いではありませんか? 常人がどのように邪悪であっても修煉者としてこれらの心をすべてなくすべきです。修行者は俗世間から抜け出るのであって、どうして常人のことを気にかけるのでしょうか?

 私は次のように悟りました。常人のどんなことも、すべて私達の修煉のために存在しています。人心が動じるとすぐに基準に達しなくなります。どれだけ大きい事件が発生しても、修煉者の心を皆、落ち着けるべきです。師父に要求された三つのことをしっかり行えば、結果を求めず、これこそ最も良い無為という状態だと思います。

 今回の反省を通じて、私は徹底的に、数年来悩んでいる時間に対する執着心をなくしました。同時に、師父を100パーセント信じるようになりあした。私は、心身ともにかつてない心の安らぎと穏やかさを感じ、修煉においてあまり苦労しているとも感じなくなりました。

 個人的な体験であり、妥当でないところは同修たちのご指摘をお待ちしています。

 2008年9月27日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/9/21/186278.html