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「神と人の違いは一念による」を再び論ずる


文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)身近にいる同修は長期にわたり「病業」の虚像から抜け出ていません。私はその同修を手伝いながらずっと考えています。我々は魔難の中で内に向けて探し、執着を放下し、正念を発して、三つのことをよく成し遂げるようにしなければならないことをよく知っていますし、同修たちもそのようにやっています。しかし、なかなか大きな変化はありません。それは一体なぜでしょうか?

 私がぼんやりと感じたことですが、ある最も深くて、頑固なものが最も根本的な妨害作用を果たしているようです。我々はそれを取り除こうと努力しています。しかし、ただいつもそのものの表面に触れるだけで、やはりそれは我々の心に深く根を下ろし、微動もしません。時に、我々はそれを見つけますが、なかなか根絶することはできません。それは我々の生命のすべてを占拠し、身体のありとあらゆる細胞に染み込み、我々の一つの考えや一つの閃きを支配しているのです。そのものは一体何でしょうか? どうやったら取り除くことができるのでしょうか? 私は何度も何度も考えました。

 「法はすべての執着を打破することができて、法は一切の邪悪を打破する事ができます」(『精進要旨二』<妨害を排除せよ>)私は真剣に魔難を越えることに関する師父の説法を思い出そうとしています。師父はヒントを与えてくださり、『転法輪』の中に説かれた二つの事例が頭に浮かんできました。

 本を手にして、先生が守ってくれているから大丈夫だと言っている人がいますが、このような人を守るはずがないと師父はおっしゃいました。それに対して、もう1人の50歳をすぎた古い学習者が車にぶつかってから、「大丈夫です」と言ったら、果たして何の問題もなかったのです。後の例に関しては、自分の会得を文章に書く学習者がとても多いのですが、大体は師と法を確信する角度から述べており、その会得に私も賛成します。しかし、前の例に挙げられた学習者も師と法を確信していないとも言えないでしょう。本を手にして道を歩く勇気があり、極端に走ったとはいえ、師と法を確信することから採った行動ではないでしょうか? 両者の根本的な区別は一体どこにあるのでしょうか?

 「心性を向上させる」という段落の説法を読んでみましたが、師父は50歳をすぎた人が車に引きずられ、路上に放り出された物語をあげられました。読んでいる内に、私ははっと悟りました。師父がここで話された大事な一念は別に「私は大丈夫だ」というものではなく、相手に迷惑をかけず、善意を持って相手を理解し、たとえ車にぶつかって生死に関わる瞬間でさえも相手のことを考えており、運転手に対して、「大丈夫だ、心配しないで、あなたのせいにしないから」という正念を発しているのです! これは怪我をしていなくても相手をゆすろうとする常人とは心性の上で確かに雲泥の差があるのです。

 師父が「心性を向上させる」という段落で挙げられた事例から悟ったのですが、つまり、いかなる状況下でも本当の修煉者の心理状態を保つようにしなければならず、いかなる利益に直面した時でも、他人のことを先に考え、堂々と利益を放棄し、たとえ生死に関わることに直面した時でも、自己を放下し、慈悲心を持って対処するようにしなければなりません。もし我々がこのような境地に達すれば、大法の力が自然に現れ、高い次元にいる生命は低い次元に表れる問題に邪魔されることがなくなり、神であれば言うまでもなく車にぶつかって怪我をすることもないのです。

 それに対して、大法の本を手にして道を歩く人の発想は、別に自ら進んで自分がよく向上するように努めるのでもないし、通行人や運転手に迷惑をかけないようにすることでもありません。その人は他人のことを全然考えようとせず、ただ大法の威力を利用し、常人社会の状態を破壊してまでも、自己を誇示しようとしているのです。このような心性では、普通の常人にも及ばず、どうやって大法によって守られるでしょうか?

 その瞬間、昔のいろいろなことが頭に浮かんできました。昔はただ入り組んでいる表面の現れに迷っていましたが、今は問題の実質がくっきりと見えるようになりました。表面上動かされていないように見えますが、実はその裏に人心が潜んでいるのです。行動から見れば恐れることを知らないように見えますが、実際は大法を利用しようとする私心が潜んでいるのです。

 それから、身なりや体裁に頓着しないのは別に色欲をきれいに除いたと言う意味でもなければ、貧しい生活を送るのは別に利益への執着を捨てたという意味でもありません。師と法への確信は別に表面上の鮮やかさではなく、心に潜んでいる私(し)のためにという根本的な属性を直し、本当に心性を高めるようにすることこそ修煉の根本なのです。「無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」(『精進要旨』

 <佛性にもれなし>)それは我々が円満成就してから達する境地ではなく、修煉の過程に出会う一つ一つの難関を前にしたとき、達しなければならない心性なのです。このようにして初めて、旧勢力の迫害を打ち破り、それらの難関から抜け出し、師を手伝い、法を正し、衆生を救い済度するという使命を全うすることができるのです。

 今、衆生は旧勢力により淘汰される災難に直面していますが、大法の真相が分かり、邪党を脱退して初めて救われるのです。法を正す時期の本当の大法弟子、師と法を確信する本当の大法徒であれば、どんな邪悪な迫害、苦痛に遭っても、衆生を救い済度することを考え、真相をはっきりと伝えるべきです。

 本当にこのように成し遂げれば、師父の法身や回りの護法神が必ず守ってくださるのであり、邪悪はまた敢えて近づく勇気があるのでしょうか? そして、自分の空間場にある旧勢力の按排どおりに悪事を働く邪悪も強大な正念の作用により解体されるに違いありません。そうすれば、「病業」の虚像や尾行、強制連行も自然に消えてしまうのではありませんか?

 私(し)の為か他人のためか、その一念は実は人と神との区別なのです。我々が心の底に潜んでいる「私(し)の為」という本性を徹底的に変えてこそ、本当に人から神になることができるのです。他人のためという立場から考えると、一つの法理がはっきりと目の前に浮かんできました。つまり、修煉の目的は別に自分が円満成就することではなく、衆生を救い済度することなのです。

 そして、三つの事を行うのも別に自分が何をやりたい、何をしなければならないということではなく、衆生を救い済度するためにはどうすればいいかと考えるべきなのです。邪悪を取り除くのも自分の安逸を貪る為ではなく、それは自分の身体の内外の無量の衆生を守るためなのです。迫害を否定するのは自分を守るためではなく、大法のすばらしさと威厳を実証するためなのです。同修を手伝うのは同修の安全を守るためではなく、それは旧勢力の按排を否定し、さらに多くの同修がさらに多くの衆生を救えるようにするためなのです。

 2008年9月30日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/9/16/185921.html