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同修の不足が見えたら、自分にも照らしてみる


文/大陸の大法弟子

(明慧日本)私は同修の不足を見ると、先に自分を見て、自分にもそのような不足があるかどうかを見ます。そして自分の心を再調整し、汚い物を捨て、純正な心情で同修に気づかせ、ともに精進するようにしています。これらの自分の足りないところに気づくとき、努力して取り除こうとするとき、同修もそれほど私の前でその執着が表れなくなることに気が付きました。

 三つのことを行なうとき、私たちの多くの人心が暴露され、中には気づくのが難しい心、深く隠れて意識できない執着もあります。同修は鏡のように自分の不足を照らします。ある数人の同修は、師父の按配で私と一緒に法を実証することになりました。これは偶然ではありません。私とこれらの同修には多くの共通点があり、彼らから自分を見ることができました。

 同修Aさんは短気で話すのが速く、みんなで一緒に交流すると、Aはいつも自分が悟った法理を先に言い、いつも人の話に口を挟みます。少し頑固な口調で話し、他人の違う意見を聞いていられません。同修Bさんは結論づけることが好きで、同修Cさんの話し方には善がなく、いつも人に命令するような言い方で、聞くと気持ちよくありません。私は善意をもって同修に何度か提起しましたが、効果はありませんでした。同修が自分の前でいつもこのようであるのは、自分も同じように接しているのではないかと後で思いつきました。私は表面的には、同修の前では謙虚なようで、このような執着心がないように見えるでしょう。

 それから、私は自分の言動に注意し始めました。同修の前では、多くのとき自分の感情を抑えられました。しかし、執着心がむき出しになったことがあります。例えば、私はいつも自分が修煉において悟った法理を同修に聞かせ、自分が悟った法理はこの意味であると強調するような話し方で、とても頑固です。同修に自分の認識を認めさせようとします。実際は、無意識に同修を自分が悟った法理の次元に制限させてしまいます。また、いつも人の話を中断させ、いつも自分を表現することに焦り、自分が誰よりも高く悟っているようであり、自分が話すばかりで他人の話に聞く耳を持たず、同修の違う認識を聞くことが我慢できません。切磋、それは一人一人が自分の認識を発表すべきときであり、なぜ話すばかりで他人の話を聞かないのでしょうか? これは自分に執着しているのではないでしょうか? すでに慣れているため、良くない心であると意識することもできません。

 修煉者の言葉はエネルギーがあります。人を救う肝心なとき、一言が一つの生命を深い淵に落とすかもしれません。多くの同修は口を修めることを注意せず、怒ると何でも言ってしまいます。例えば、「この人は悪魔だ」、「この人はもう救えない」、「彼はすぐには変われない」などです。このように話せば、その常人を言ったとおりに決めてしまうのではないでしょうか。その人を救うことがさらに難しくなってしまいます。正法はまだ終わっていません。その人を救い済度する機会はまだあります。なぜ人心を捨てないからといって、法理にふさわしくない言葉を言うのでしょうか?

 自分を振り返って見ると、普段はいつも結論づける習慣があり、「あなたはこうです」、「絶対にこの通りです」、「彼はまさにこのような人です」と決め付けてしまいます。子供に対しても同じで、怒ると何でも言ってしまい、あるときは言い終わってから、そのように言うべきではないと分かったのに、どうしても自分を抑えきれません。師父は、「われわれは口を開いてものことを言う時には、煉功者の心性に基づいて言うので、人と人の間の和を損なうようなことは言わないし、良くないことを言わないのです。修煉者として法の基準に基づいて、自分が言うべきかどうかを判断するのです。」(『転法輪』)とおっしゃいました。わたしたちは法の要求に従って行うべきであり、口をきちんと修め、容易に結論づけるべきではないと思いました。師父以外に、だれに物事の根本が見えるというのでしょうか?

 ある同修は他人の不足や間違いを指摘するとき、話し方に善がなく、怒りながら指摘します。またあるときは、言えば言うほど興奮してしまいます。同修を助ける気持ちでしたが、結果的に善のない口調のため説得できなかった上、同修との隙間が開いてしまいました。私たちは「真、善、忍」を修煉し、もし話したことが善に基づいてなければ、心も善になっていないのではないでしょうか。あるとき、同修の不足を指摘したとき、同修は「あなたの口調は同修Cさんとそっくりです」と言いました。私はとてもびっくりしました。さきほどの口調は本当に同じでした。私は、内に向けて探しました。なぜ同修の不足を指摘するときの口調が善に基づいてないのでしょうか? 自分に私心があるからです。同修の不足が(または同修のやり方が自分に合ってないため)自分の人心を刺激しました。この執着は多くの人心を隠しています。家族に対する情の執着、嫉妬心、闘争心などが入っています。実際、他人を指摘するときは絶対に自分に執着する心を捨てられないからであり、もし完全に自我がなく、他人のためで私心がなければ、口調が善に基づかないことはありません。同修も喜んで受け入れます。

 またもう一つ感じたことがあります。師父はすべての出来事を通して私たちの執着心を放棄させてくださいます。ですから、どんな出来事が発生しても、必ず出来事の表現に惑わされず、出来事の中に巻き込まれず、誰かの間違いを探すのではなく、混乱させず、そこから絶対に抜け出さなければなりません。まず、この出来事は自分のある心を刺激することにあり、自分の何らかの心を捨てるときなのです。このようにすれば、毎回の向上する機会を見逃すことはありません。

 2008年10月30日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/10/26/188423.html