日本明慧
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修煉過程でのささいな体得

(明慧日本)

 家庭資料センターを設立

 家庭資料センターを設立するのはそれほど難しいことではありません。難しいのは常人の観念が妨害することです。パソコンを使い始めたときはいろいろな妨害を受けました。主に家庭での妨害は、経済的に余裕がないことです。母は「自分はもう年寄りで、持っているお金を置くところがない」と、わずかな数千元を私にくれました。ですから、このお金は正しいことに使わなければならないと思いました。

  この一念があったので、パソコンを購入することを妨害する一切の邪悪とその要素を整理することを師父が助けてくださったので、すぐにパソコンを購入することができました。ですが、パソコンを使ったことがないので、どうすればよいのか分からず、最初はマウスの使い方すら分かりませんでした。パソコンを使える同修が、私にインターネットの簡単な開き方を教えてくれたので、30分もたたないうちに順調に明慧ネットを見ることができました。その時はとても嬉しかったのです。今は簡単にできることですが、パソコンを持っていなかったきは、とても難しいと思っていました。

 4年間置きっぱなしのプリンタの出番がきた

  師父の助けと大法が開いてくれた知恵のもとに、インターネットにつないで、ファイルをダウンロードすることができましたが、プリンタがありませんでした。同修の家に4年間置きっぱなしになっているカラープリンタがあり、ずっと使えないままでした。このときは心のバランスが崩れていて、闘争心や、心配症、たくさんの執着心がありました。これがプリンタを買ってずっと使えない一つの原因でした。

  同修とプリンタを家に持ち帰りましたが、使い方が分かりませんでした。このとき、プリンタを買うのを手伝ってくれた友だちを思い出し、電話をして使い方を聞くと、彼は持ってくるようにと言いました。私は途中ずっと正念を発し、師父のご加護を求めました。プリンタを修理する間、私はずっと正念を発し、彼らに真相を伝えました。話し終えたとき、修理する人は「これで大丈夫だ、使えるようになった」と言いました。私はとても感動し、これは師父のご加護のおかげだと分かりました。同修の家に4年間置きっぱなしにしていたプリンタが使えるようになったのです。

 資料作成の過程は、自分の修煉過程でもある

  同修の助けのもと、資料センターの便利な設備が増えました。プリンタを使い始めたときはまったく分かりませんでしたが、苦難にあったとき「忍び難きは忍びうる、行い難きも行いうる」(『転法輪』))を暗記すると、すべてはぱっと解決しました。

  自分でできた真相資料を見て歓喜心と顕示心が表れ、自分はすごいと思い、話す態度まで他人と違っていたのですが、自分ではそれに気づきませんでした。できた資料をいつも同修に見せては「使えないプリンタが私のところにきたら使えるようになった」と言って自分を顕示しました。できた資料を同修のところに持って行って見せると、いつも問題が起きました。それは印刷の間違いか、または良くなかったのです。どう見ても同修に対する顕示心と歓喜心があったのです。法を学ぶことを通じて、自分に問題があり、同修の態度は自分の鏡であると思いました。私の顕示心と歓喜心を師父が私に見せてくださったのです。正念を発して顕示心と歓喜心の一切の邪悪とその要素を解体し、「それは私ではない、執着があっても邪悪に利用させない」という一念を発すると、一瞬にして悪い要素が消えたのです。

 一刻一刻、心を修め、内へ向かって探す

 私の家は年寄りから子供までいる大家族で、すべてのことを私がやらなければなりませんでした。仕事にも行かなければならず、資料も作らなければなりません。ある同修は「あなたはなぜこんなたくさんの事ができるの? 疲れないの?」と聞きました。心の中で師父に「なぜこんなに多くの事をしなければならないのですか? 邪悪が強いたのですか? 自分が何かの執着心を捨てないからなのですか? とても悩んでいます・・・」と訴えました。

  法を学び、師父が語られた法理が分かるようになると、本を読みながら、涙が止まりませんでした。夫は兄弟が多く、私より条件が良いのに、だれも年寄りの面倒を見ないのです。ですが、これは自分の修煉する環境であり、不平に思う心や、嫉妬心、闘争心を捨てなければならないと思いました。以前は誰とも口を聞きませんでしたが、これは自分が良く修めていないから起きた事でした。家庭も師父が按排された修煉環境の一つです。怒りと恨みを捨てたら、どんなことがあっても微笑むだけで、疲れていても按排されたすべてのことをやり通し、物事を行うこともとても早くなったのです。

  ある時刻に正念を発しているとき、目の前にたくさんの小さな船がある方面へ進んでいくのが見えました。自分は水中で人を船に乗せており、夫と子供も船に乗っていて、私が人を救うのを見て、早く船に乗って休むようにと叫びました。私は「大丈夫! 人を救わなければなりません」と返事をしました。そのとき目から涙が流れ、頭のてっぺんから身体全体に熱いエネルギーが流れるのを感じました。師父が私の身体を浄化してくださっているのが分かりました。全部師父が助けてくださるのですから、なぜ疲れることがあるでしょうか?

  物事をよく行うことに執着してまた極端に走りました。背中に小さいリュックを背負っているのを感じ、正念を発して少し取り除きましたが、また戻ってきました。どのような心がいけないのかを探し当てることができませんでした。同修の口を使って、私が物事をよく行いたいという心を師父が指摘してくださいました。その後、正念を発して取り除いたら、背負っているリュックは消えて、身体が軽くなったのです。

 家庭での誤りから抜け出る

  子供の父方のおばさんが、遠くから老人2人の面倒を見にやって来ました。私は以前からおばさんが家に来るのを嫌がっていました。来るたびにいつもあれこれと批判され、心がとても穏やかになれず、修煉の過程で多くの妨害をもたらしていたのです。おばさんは、かつて私が迫害を受けていたとき、私に暴力を振るいました。表面上では恨んでいませんが、心の中ではいつもあるものが塞がっていました。真相を伝えることが良くできていないので、夫の姉妹は大法に対して誤解と偏見があり、大法に対して罪を犯したことがあります。

  彼らは異なる罰を受け、ベッドから起き上がれなくなったり、手術をしたりしました。夫は兄弟が病気にかかって病院にいると聞いて、「これであなたは喜ぶだろう、恨みがあるだろうから・・・」と悲しそうに言いました。そのとき師父がその心を捨てることを悟らせてくださったと感じました。修煉者がいつまでもこんな状態でいいのでしょうか? 私は夫に「ごめんなさい、私が間違っていました」と謝りました。彼らも衆生であり、私の衆生に報いがあることは許せません。自分の家の人を救わないで誰を救うのでしょうか? 恨む心が無くなれば、すべてが慈悲の心なのです。

  おばさんが来た後、いつも大法の教えに従い自分を厳しく律し、何事に対してもまず他人のことを優先に考えました。彼らが何を言っても何を行なっても、いつも慈悲の心を保ち、本当に師父の要求通りにしたとき、すべてを上手く行ったのです。

  私の修煉の過程は、良くなったり、悪くなったりしながら、まだたくさんの執着心を捨てなければなりません。修煉の過程で良く行いたければ、必ず法をよく学ぶ必要があります。それが円満への保証なのです。

 2008年11月4日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/10/27/188635.html