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中士から真に修める弟子へ(五)


文/中国東北地区の大法弟子

(明慧日本)

 四、法をよく学ぶことはすべてをよく行える根本的な保障である 

 私はずっと法の学習を一番大事なことと見なしており、私が歩んできた一歩一歩はもし大法の指導がなければ、乗り越えられなかったと思っています。だから、いくら忙しくても、大法の学習を疎かにしないようにしているのです。

 2005年の初めごろ、私は他の空間から邪悪にひどく妨害されました。つまり、誰かに何かを言われると、すぐ頭の中に自動的にその話が映画のように浮ぶのです。例えば、或る同修の弟さんはやくざで、後に処刑されることになったのですが、その同修が弟さんのことを教えてくれた時に、何気なく聞いていたのですが、後で、妄想にとらわれてしまいました。もう一人の同修が自分の親戚が商売をして儲けたことを教えてくれると、また頭の中に自動的にそのことが映画の場面のように浮かんでくるのです。このように頭が全然休むことができず、くたくたになってしまいました。そして、同修と交流しても効き目がなく、非常に困ってしまいました。後でやはり法を学ぼうと思い、『転法輪』をめくると、ちょうど思想業について書かれた段落が目に入り、心がドキッとし、その排除しきれず抑えきれないものは思想業ではないかとすぐ悟るようになりました。

 原因を見つけると、私は法を学ぶようにしました。後にまた法を暗誦するようにしました。以前に一度暗誦したことがありますが、二度目の暗誦はずっとできず、いつも第二講や第三講まで暗誦すると、通読は暗誦より速いと思い、止めてしまうのです。だから、今度は通読と暗誦を同時に行うことにしました。つまり、暗誦できるところは暗誦し、暗誦できないところは通読するという方法を採りました。

 そうすると、私は暗誦する時に、「暗誦は遅いから、やはり通読していこう」という考えが頭に浮かんできました。それは思想業だ、取り除かれるのを恐れるから、このように浮かんできたのだと私はすぐにその考えの正体を見透かしました。また、法の暗誦は思想業を取り除く最もいい方法だともっとはっきりと解るようになりました。私はこれで自信をつけ、2日に1回『転法輪』を暗誦するようにしました。このように十数回暗誦した後、思想業はいつの間にか全部消えてしまい、心身ともにかつてない軽快さを感じるようになったのです。

 それ以来、法の暗誦を続けてきました。暗誦できる部分が増えるにつれて、本を見ずに暗誦するようにしてみました。集団で法を学ぶ時、他の同修が読む時、私は小さい声で暗誦してみました。そうすると、できないところや間違ったところも分かるようになりました。今集団で法を学ぶ時、私はもう本を見ずに同修と一緒に通読することができるようになりました。法を暗誦することのメリットは実にたくさんあるのです。例えば、私は昔よく邪党の歌を無意識に鼻歌で歌ったものですが、今はよく大法の言葉が頭に浮かんでくるのです。そして、よく内に向かって探してみると、浮かんでくる大法の言葉は大体自分の何らかの執着や観念を取り除くように注意してくれているのです。師父は修煉には近道がないとおっしゃいましたが、私が思うには法を暗誦することがその近道なのです。つまり、何かの出来事に遭ったとき、大法の言葉がすぐ頭に浮かんできて、すると、どのようにすればいいかすぐ分かるようになったのです。だから、ここで皆さんに大法を暗誦することを薦めたいのです。正に師父が『米国西部国際法会での説法』の中で教示されました、「ご存知のように、以前私は皆さんにある道理を話したことがあります。つまり、人間が何を見たとしても、頭の中に見たものを注ぎ込むことになります。良いものがたくさん入れられると良い人になりますが、良くないものがたくさん入れられると、悪い人になります。大法弟子は常に大法の本を読んでいるので、正法の生命になり、神に成就したら、法王になります。」

 五、自己を否定し、師父の要求に圓容する

 最近、なんだか自分の修煉の道程が停滞しているようで、昔みたいに飛躍的に向上していないように感じました。自分も悩んでいますが、なかなか原因を見つけられませんでした。ある日、師父の『オーストラリアの学習者に対する説法』のビデオを学んでいた時、いつまでも最前線で真相を伝える学習者に敬服するという師父のお言葉がヒントを与えてくださいました。すると、自分が停滞している問題点も解るようになりました。それ以来ずっと、心性が向上するに伴い、師父が知恵を開いてくださり、技術も昇華してくることになっているので、すでにその形式に拘り、それを精進するかどうかの基準と見なしたのです。しかし、師父の法を正される進展の異なる時期に我々に何を行ってほしいのかについてあまり考えなかったのです。正に『時間との対話』の中で師父は教示されました、「彼らはいつも常人と比べ、自分の昔と比べていますが、各次元での法の要求に基づき自らを量ることができません。」

 昔の環境では表に出てくる同修がまだ少なくて、技術が分かり、資料を作る同修は更に少ないことから、技術を教え、資料を作ることをまだ最前線と見なしていていいかもしれませんが、家庭資料点がどんどん増え、同修が大量に表に出て来るに従って、まだその考えを固持すれば、もう正しくないのです。今はもう人を奪う時期になりましたから、衆生を救い済度するという師父の要求に圓容することを第一位に置くべきだと思います。こういう意味では、最前線というのはつまり一番みんなに参与してほしいところなのです。それから、私は自分の求める心と貪欲さで満足を知らない心、いつももっと多く師父に与えていただきたいという汚い心も見つけるようになりました。

 そのことを悟ってから、私はただ消極的に同修が尋ねに来るのを待つのではなくて、積極的に真相資料を配ったり、真相を書いた紙幣を支払ったり、常人に直接真相を伝えたりして、時間をできるだけ衆生を救い済度することに使うようにしました。基点を変えると、私は自分の思惟がまた広がるように感じました。と同時に、ずっと直接常人に真相を伝えている同修とはどれほどの差があるのかも分かるようになりました。この新しい環境を目の前にして、修煉の道程はまだまだ長いと意識しました。しかし、救われるのを待ち望んでいる衆生を救い済度する自信を私は持っています。彼らを失望させないように、もっともっとよく行っていこうと思っています。

 (完)

 (明慧ネット第五回中国大陸大法弟子修煉体験交流会) 

  2008年11月27日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/11/6/188774.html