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李正霊さんは中国共産党当局に迫害された(写真)

(明慧日本) 李正霊さんは(1964年10月9日(旧暦9月17日)生まれの男性)学歴は高卒で、四川省古藺県古藺東新街94号棟に居住していた。1983年延源武装警察部隊より退役して、古藺県医薬会社の太平営業所に勤務していた。その後リストラされて太平と貴州の習水の境に薬屋を開業した。

法輪功修煉者・李正霊さん

 1996年に、李正霊さんは大法と巡り会い心身ともに受益した。彼は法輪大法を伝える洪法のためには苦労を惜しまず、村々を回り四川と貴州では、多くの人々が大法を修煉するようなった。1999年7月20日、悪党が法輪功を迫害し始めた後、大法を実証するため1999年10月27日に、300数人を集めて「太平長征大橋」の側で集団煉功を企画した。このために、彼は太平派出所と貴州習水県の醒民派出所に連行され、不法に習水県留置場に拘禁された。当時、太平派出所と醒民派出所はそれぞれ「8000元のお金を払えば釈放する」と言ったが、李正霊さんの妻・洪世平さんは悪辣な警官の強請りに応じなかった。3日後、何の訴訟手続を通らずに、習水県公安局は李正霊さんに3年の労働教養処分を言い渡し、貴州の清鎮労動改造農場に送って迫害をした。

 李正霊さんは3年間の迫害を受けた後、不法に2カ月延期された。2002年12月に家に戻ってから、太平で石炭の商売を始めた。彼は学法、煉功を続けて真相資料を配り、真相の横断幕とスローガンなどを掲げたりした。

 2004年12月28日、 古藺国安大隊長の鄒強は6人の暴漢を連れて李正霊さんの家に侵入し、古藺留置場まで連行した。家財の差し押さえは何回も繰り返された。2005年2月4日に李さんは捕らえられ、8月18日に不法に5年の刑罰を下された。当時、李正霊さんの両目は、すでに物をはっきり見ることができなくなっており、家族が李さんを引き取りたいと要求したが拒否された。

 李正霊さんは強行に徳陽監獄に監禁され、迫害により両眼を失明した。2007年10月28日、 李正霊さんの母親は、ようやく、手続きを通じて両目を失明した息子を見舞うことができた。李正霊さんは2人に支えられて会見室まで歩いてきた。母と子は対面することができたが、李正霊さんは音でしか判断できず、母親の顔を見ることはできなかった。親子が一緒にいられたのは、わずか10分くらいであった。母親は、自力で生活できない息子の悲惨な光景を見て「家で治療させたい」と要求したが、再度刑務所側から拒否された。 

 2008年6月21日の夜9時に、家族は刑務所から危篤の知らせを受け、23日の月曜日に何度も曲折を受け、何とか成都へたどり着いた。24日の午前7時にようやく双流警官総合病院を探し当て、たどり着くことができた。何度も訪ね歩いて李正霊さんの行方を知る事が出来たが、6月11日に総合病院に送られた時点で血圧が60しかなく、今朝、5時半に亡くなったと知らされたが、徳陽刑務所の人が着てからならば、遺体と対面することができるということだった。

 刑務所の人が来て、王警官は「李正霊さんは、食事をしても吐くし、尿をせずに、時にはベッドの上で大小便をするなど、協力しなかった」と言った。11日総合病院の検査では血圧が60余りで、 人道的に治療して好転したが、彼は「生きたくない」と言って、舌をかんで自殺したと誤魔化した。遺体を見たとき、でん部には床擦れがあり、頚部や下腹部には小さな切り傷があった。顔の皮膚の色も正常ではなかった。関係者の説明によると「頚部の切り傷は気道を開くため、下腹部の切り傷は尿を放出するために切った」と言った。実際、李正霊さんは最後には食べることができず、全身が衰弱してショック状態になり、腎臓が機能せず尿が出ずに、すでに死亡に近い状態だった。しかし刑務所側は家族に何の連絡もしなかった。刑務所側の関係者は写真を撮ることを許さず、直ちに火葬してしまい、彼の妻が掛けつけて来るまで待たなかった。

 2008年11月27日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/11/20/190093.html