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修煉を通して昇華する(一)


文/湖北省の修煉者

(明慧日本)

 慈悲深く偉大な師父、そして同修の皆様にご挨拶申し上げます。

 私は1995年3月に法を得ました。偶然と思えるような形で熟練修煉者が『法輪功』(改訂版)の本をくれたのです。読む時はきちんと座って、喫煙はしないようにと忠告を受けました。当時はその言葉は特に気にかけず、ただ読みました。本を読んだ時、強いエネルギーが体内を駆け抜けるのを感じました。心地よく素晴らしい感覚で、これまで体験したことのない、言葉では言い表せないものでした。心の中で求めていた、30才を越える人生で多くの謎や分からなかったこと、知りたかったこと全てが書かれていました。法を得た時の興奮と喜びは言い尽くせないほどです。その時、この法に則って最後に至るまで修煉したいという一念で頭が一杯になりました。

 一 堅実な修煉

 1.学法

 修煉の最初の1カ月は、法輪功の全ての書籍を読み、全ての録音テープを聞きました。一分、一秒も惜しんで法を学びました。継続して学んでいくうちに、この法は普通の法ではなく、宇宙の偉大な法であり、修煉者を真の自分に戻らせ、成就させることのできる法だということを認識しました。

 師父の講義のビデオを見るために修煉者の家に初めて行った時のことを、今も覚えています。講義が始まると、穏やかで強いエネルギーに包まれていると感じ、まもなく一種の麻酔状態のような眠っているような状態になりました。私の頭は強いエネルギーの流れの中で前後に動いてしまい、自分では抑制できませんでした。でも頭脳は明晰で、『転法輪』で師父が書かれている通りでした。「受講中、ずっと眠っている人もいますが、講義が終わると目が覚めてきます。なぜでしょうか?それは頭の中に病気があって、その調整をしてあげなければならなかったからです。頭の調整は、とても耐えられないものなので、本人に自覚はありませんが、昏睡状態に入らせなければならないわけです。 ところが、聴覚には問題がないので、ぐっすり眠っているのに、一言も聞き落とさず、全部耳に入っており、その後は、元気が出て、二日間一睡もしなくても、まったく疲れを知らないという人もいます。それぞれ状態が異なるので、それぞれ調整し、身体全体を浄化してあげなければなりません。」

 法を学んで最初の一カ月で、ある程度分かるようになりましたが、個人的な体験と実践から、法輪功の超常的で奇跡的な力を認識するようになりました。理解できるかどうかはさておいて、師父の言葉の一言一言を疑いなく信じるようになりました。この最初の一カ月間の学法期間で、今後の修煉のための堅実な基礎を固めました。

 2 喫煙・飲酒を止める

 『洪吟』の「実修」の中で師父は次のように詠まれています。「法を学びて法を得る 学んで比し修して比す 事々く対照し 做すところ到るは是れ修」。法輪功を修煉することを心に決めた者にとって、法に照らして全てを行うことが真の修煉です。私にとって最初の試練は酒とタバコを止めることでした。当時、わたしは白酒を2日で一本の割合で空けていました。朝食以外は必ず食事の席で飲んでいました。『転法輪』で師父は次のように語っておられます。「酒を命と思うような人もいれば、酒に目がない人もおり、すでにアルコール中毒になっている人もいます。酒を飲まないとご飯茶碗を持ち上げる気にもならず、全然我慢できません。」

 法を学び始めてからすぐに、師父は私の面倒をみてくださり、身体の正しくない状態を調整してくださいました。喫煙・飲酒は正しくない状態であり調整すべきです。当時、喫煙・飲酒をすると気分が悪くなり、味がしなくなりました。これほど簡単に短期間で酒とタバコを止められるようになるとは思いませんでした。苦しみも受難もありませんでした。10年間の喫煙・飲酒の経歴を持ち、アルコール依存症となっていた私にとって思いもよらないことでした。法輪功の超常的で奇跡的な力を体験し、さらに私の修煉への心を固めました。

 3 煉功中の奇跡的な体験

 ある日の午後、公園の湖の近くで静功(座禅)をしていました。わずかの時間で気持ちの穏やかな「入定」状態に入りました。手も足もなくなったかのような感覚でした。長く座れば座るほど、身体がどんどん軽くなっていきました。最後に10メートルまで浮き上がりました。とても興奮し、とても嬉しく思いました。師父のおっしゃる言葉の一言一言が宇宙の真理であることに気付きました。この偉大な法の中で修煉できることはなんと恵まれていることでしょう。

 ある夏の朝7時、公園で動功の煉功をしてから、静功(座禅)をするために座りました。陽射しはすでに高く、焼き付けるようでした。修煉者達は木陰を探してあちらこちらに散らばりました。私はその場から動かず静功を始めました。最初はとても熱く耐えられないほどでしたが、15分後、まるでエアコンの入った部屋にいるかのように、身体がどんどん冷えていく感じがしました。雲がかかって、陽射しが私にあたらなくなったのだろうと思っていましたが、目を開けると、驚いたことに、太陽はこれまで以上に高くぎらぎらと輝いていました。なぜこんな中で私は涼しく感じるのでしょうか? 師父が私を励ましてくださり、このような神奇的な体験をさせてくれたに違いありません。私の様子を見て、他の修煉者達も前の位置に戻り、静功を続けました。私はとても嬉しく感じました。一切は師父がしてくださったことで、弟子としての私はただ瞑想することを思っていました。

 ある春の朝、いつものように午前6時に公園に行きました。途中で雨になり、修煉者は少しずつ家に帰り始めました。四番目の煉功が終った時は私1人になっていました。仕事が始まるまであと1時間あります。職場に行くには早過ぎますし、家に帰っても時間が無駄になるだけです。雨が降る、降らないにかかわらず、静功をすることにしました。1人で座りました。周りはとても静かでした。途中で大雨になりました。深く入定しており、降られるがままにしていました。だたの雨じゃないかと思っていました。心は全く動かず、雨も全く感じませんでした。その場に静かに心地よく1時間座りました。雨は止みました。驚いたことに私は全く濡れていませんでした。私の身体は完全に乾いていました。周辺の地面を見渡すと、ぐっしょり濡れていました。私が座っていたところだけが乾いていました。私は口では言い表せないほど興奮しました。師父の法身は至るところにいて、修煉者を守ります。また法の超常的で神奇な力を体験しました。自分で体験していなければ、全く信じないでしょう。

 二 苦を以て楽と為す

 ニュージーランド法会での講法の中で、師父は次のように語っていらっしゃいます。「間断なく精進するにつれ、法理に対してもますます理解し、修煉もだんだん簡単になります。多くの物事を考えるとき、常人のように複雑に考えてしまうのではなく、一目瞭然です。」この言葉から、法を良く学ぶことの大切さをさらに認識しました。法理を明白に掴むことで、問題が起こっても複雑に考えず、事の本質を把握できるようになります。難に遭っても一目瞭然に簡単に見抜くことができます。以下、私の遭遇した二つの心性の試練についてお話しします。

 1996年のことでした。私は当時バスの運転手でした。毎日一台のバスを二人の運転手が昼と夜と交替で運転していました。その日、私は夜勤でした。一度目の往復を終えた時、安全検査員がタイヤを指して「後輪のハブキャップがない。君の責任だ」と言ってきたので、「私がですか?」と、あまり深く考えずに答えました。検査員は確信を持って「君が夜勤を始める前にハブキャップがあったことは確認した。今はない。他に誰の責任と言えるのかね?」と返答してきました。「それほどおっしゃるなら、私がなくしたのでしょう。規定から補償が求められることは知っています。私の給与から差し引いてください」と私は答えました。半月後、給与明細書に150元(給与の10%)が差し引かれていましたが、心を動じさせませんでした。ほとんどこのことを忘れかけていた時、別の運転手が私に耳打ちしました。「ハブキャップをなくしたのは君じゃないよね。」私は即座に「じゃ、君だったのかい?」と答えましたが、「ボクでもないんだ」と返答されました。「じゃ、一体誰だったんだい?」と聞くと、「ボクは当日休みをとっていたんだよ。ボクの勤務は某君が代わったのさ。彼がハブキャップをなくしたのさ」とのこと。「なんで、そんなに確信がもてるんだい?」とたずねたところ、「安全検査員が、君はタバコを一本もくれたことがなく、ケチだから、今回は君を損させると言っているところを聞いたんだよ」と説明してくれましたが、私はただ微笑んで何も言いませんでした。

 私の反応を見て、正義を守ろうとする口調で彼は「上司に報告して間違いを訂正してもらうべきだよ。金銭の問題でなく、このままにしておくべきではない」と主張しましたが、私は落ち着いて笑いながら「もう構わないよ。済んでしまったことだから、このままにしておこう。上司や他の同僚の前では言わないでほしい」と答えました。同僚はちょっと驚き、不可解な顔をしました。そこで私は「法輪功の修煉者として、問題に遭遇したら自分の内を探すことが求められているんだ。恐らくボクは過去に悪いことをして何か借りがあったに違いない。この借りを返したんだ。借りを返すことは自然のことだからね」と理由を言いましたが、彼はさらに怪訝な顔をするので、「明日『転法輪』を持ってくるよ。本を読んだらボクの言っていることが分かると思うから」と答えました。『精進要旨』の「忍とは何か」と題する経文で、師父は下記のように言っておられます。「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。 まったく怒り恨むことが生じることなく、不平に思わないことこそが修煉者の忍なのです。」

 (続く)

 (明慧ネット第五回中国大陸大法弟子修煉体験交流会)

 2008年11月27日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/11/4/188703.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/11/18/102351.html