日本明慧
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法を実証する中で昇華する(下)(三)


文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)

(二)執着を放下し、後天的な観念を打ち破り、資料点を作る

労働教養所から戻って来た時、全市にはただ一つの大きな資料点しかありませんでした。その時、協調役をする同修がこのように教えてくれました。その資料点はわが市の同修の資料を提供すると同時に、周辺地区に資料を提供しているのです。資料点の機械は四六時中フル稼働し、機械の音が大きいため、真夏でも窓とドアをしっかり閉めて、綿入れのかけ布団をカーテンとしてかけているのです。また機械にも布団をかけていて、稼動するたびに、同修達は布団に潜り込んで作業をする為、出て来た時は、汗びっしょりなのです。同修は途中で何度か気を失った事がありますが、それでも頑張って続けているのです。「今度、皆も帰ってきたし、もう一つの資料点を作ることが出来るでしょうか?」というのです。そのことを聞いて、私は涙が流れました。私は「安心してください、必ず作りますから」と返事をしました。しかし、設備1台に3万6千元のお金がかかり、それ以外にまた家賃などがあります。それに、修煉者の中で賄ってはいけないと思うと、私は大変困りました。

その日の夜、私はそのことを妻に話しました。それから「我々には、3万元の貯金があると分かっていますが、その中から2万元を出して、残りの足りない部分は私が何とかしますから、どうですか?」と妻に聞いてみましたが、「それじゃ、これから私たちはどうやって生活するのですか?」と聞き返したきりで、後で、私がなんと言おうと、黙っているのでした。最後には「認めてくれないのなら、大法のために使うから、私の分をください。ただ、いつか皆が成就した時に、金袋を抱え込んで泣き喚いても何の意味もないということを分かってほしい」と私が言ったら、妻は一晩中眠れず、翌日の朝、「我々のすべては皆大法が与えてくださったということはよく分かっていますが、2万元も出すと思うと、やはりちょっと心細かったのです。しかし、今よく分かりました。お金を出しましょう」と言ってくれました。私がお金を全部用意した時、協調役をする同修も残りのことを全部やってくれました。このようにしてもう一つの大きな資料点ができました。

2003年に私は留置場から戻ってきて、同修達と交流する時に気付いたのですが、一部の協調責任者は資料点の同修とのしこりが大きかったのです。後で調べて分かったのですが、皆とても忙しくて、法を学ぶ時間が少なかったからです。同修達がどんどん表に出てくるに従って、資料の量も増えてくるのに対して、資料点はまだいたるところにない状態で、資料点の同修は協調役をする同修に資料をもっと多く作るように催促されて、法を学ぶ時間がなくなり、トラブルが生じたのです。

そこで、私は家庭資料点を作ることについて、たくさんの同修と交流すると同時に、明慧ネットに掲載された文章を編集して、皆に読ませました。すると、資料点がいたるところにあるというのは法を正す進展の今の段階での要求であり、我々も行動に移らなければならないと皆は認識するようになりました。しかし、本当に資料点を作ろうと思うと、コンピュータを使ったことがないとか、自分の家で資料を作るのはやはり不安であるとかいう観念が浮かんできて、そう簡単には進みませんでした。

学法を通して、私は悟ったのですが、いたるところに資料点が要求とされた以上、すべての大法弟子がそれを圓容する責任と義務があるのです。私は協調責任者として、また古い修煉者として先頭に立って行動すべきです。そこで、私は妻と家庭資料点を作ることについて相談してみました。すると、妻から「私たちは皆一時出所の形で戻ったし、よく注目されているのだから、このようにやりたいと思うのは、自己顕示欲を持っているからではないか」と言われました。「それでは、自己顕示欲を取り除くようにする。但し、資料点を作るのは間違いではない」と私は言いました。他の同修と交流する時も私たちは特別なのだから、資料点を作るのは相応しくないと言われました。そこで、私たちは法を学び、内に向けて探しましたが、それは他ならぬ恐れる心、つまり他の人に知られるのを恐れる心を持っているからだと分かりました。

しかし、恐れることは求めることではありませんか? つまり邪悪に迫害されるのを求めているのではありませんか。その観念は旧勢力の按排したものであり、認めてはならず、解体しなければなりません。我々が正しく行いさえすれば、師父はすべてを守ってくださるのであり、邪悪は迫害や妨害をする資格がないのです。このようにしてこの観念を打ち破りました。そうしたら、今度は「コンピュータの事が全く分からない」「それは時間の無駄使いである」という観念がまた絶えず頭に浮かんでくるのです。そこで、それらの観念が浮かんできたら、排除するようにし、「仏法無辺、常人にはできないが、大法弟子なら必ずできる」と常に自分に言い聞かせました。それらの観念を全部打ち破ってから、私は家庭資料点を作りました。

後にコンピュータの技術を学ぶ時、私はつくづく感じましたが、私は実証科学の虚像に心を動かされて、もっぱら技術だけを丹念に学んだら、随分骨をおっても効き目がないのに対して、もし法をよく学び、正念で対処するようにすると、すべてはとても簡単になるのです。例えば、最初同修が貸してくれたパソコンはよくフリーズしましたが、技術を教えてくれる同修は「このパソコンはこんなもので、フリーズしたら、プラグを抜いて再起動するしかない」と教えてくれました。それで、「じゃ、仕様が無いから、先ずこれを間に合わせよう。余裕があるとき、また新しいのを買おう」と思いました。しかし、後で交流文章を読んでから、考えを変え、そのパソコンを師に手伝い、法を正すために来た生命と見なし、よくそのパソコンに向かって真相を伝えたり、正念を発したりしました。すると、後では全然フリーズしなくなったのです。

今、全市の協調責任者(年配者も含めて)は殆ど普通のコンピュータと、プリンタの操作技術を身につけました。今では我々の地区にも本当にいたるところに資料点があります。私の体験としては、大法を実証し、衆生を救い済度するという基点に立って物事を考え、分からないところがあれば、他の同修に聞けばよく、もし他の同修も分からなければ、師父に求めるようにすればよいのです。我々の心性が法に符合すれば、師父は必ず知恵を与えてくださるのです。

(つづく)

(明慧ネット第五回中国大陸大法弟子修煉体験交流会原稿)

2008年12月26日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/11/24/190421.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/12/21/103168.html