日本明慧
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同修が向上できるように本当に責任を持つこと

(明慧日本)法を実証する中で、全体に対して協調すること、及び佛学会に対して協調することは、よりよく衆生を救い済度するためなのです。協調する過程の中で、意にそぐわないことが現われても自分を向上させる機会であり、良いことなのです。

佛学会が行ったことに同意できないときがあったら、同意しないその心はどの心なのか、まず自分を見るべきです。修煉する心は妨害されることはありませんし、修煉して神になった部分も人心に動じられることはありません。すべては法と同化する過程であり、良いことです。

佛学会が手配した一部のことが妥当でないと感じたら、無条件にそれを円容させ、損失を減らすことは、大法の一粒子としての責任であり、威徳を樹立する機会でもあるので、これも良いことです。

およそ真に修める人ならば以上述べた道理は分かっているはずです。しかしそれにもかかわらず、全体との協調がまだ良くできない時があります。私たちは、まだ人間の部分があると強調してはいけません。なぜならばそれは修煉者が無条件に修煉を通して取り除くべき部分だからです。しかし日常生活の中で、私はよく同修の間で、佛学会に対する指摘や非難の声を耳にします。しかしこの不満そのものは妨害であり、同修の間にある間隔の要素を強めることになります。なぜ、陰で佛学会に対して不満を言うのでしょうか? 佛学会に問題があるならば面と向かって指摘し、善意をもって相手を理解すべきです。なぜ面と向かって指摘できないのでしょうか? 佛学会が一部のことにおいて不足があり、何度指摘しても大きな改善がなく、佛学会が同修の意見に対してあまり耳を傾けないにせよ、私が思うには、長い間このような状態を形成させたのはすべての人によるものだと思います。一人の常人ですら繰り返して真相を伝えることで徹底的な変化が見られるのに、なぜ修煉者になるとかえってだめになるのでしょうか?

佛学会の問題を強調するほど、その同修は佛学会というポジションを重く見すぎています。なぜ他の同修とはうまく交流ができるのでしょうか? 佛学会の修煉者も同修ではありませんか? 佛学会を担当しないならば普通の大法弟子ではありませんか? しかし実際多くの同修が佛学会に対する執着のため、佛学会と同修との間の関係を正しく認識することができず、互いの交流が少なくなり、相手が本当に向上できるように相手の不足を指摘できなくなったため、人為的に間隔を作り出してしまいました。このような視点からみれば、佛学会の同修が正しい交流の環境が得られないため、修煉において不足が見られるようになったのであれば、このような状態を作り出したのはまさに私たちではありませんか? それならば、私たちはその問題を指摘し合い一緒に向上すべきなのではありませんか?

私たちは同修が本当に向上できるように責任を持つべきです。本当に形式において対立してはなりません。お互いの認識には異なるところがきっとあります。異なるところがあるのなら交流を通して、お互いに理解し合い、一つの全体を形成すべきです。

以上は個人の認識に過ぎず、正しくないところはご指摘お願いします。


2008年12月24日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/12/22/192012.html