日本明慧
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世界のいたる所で真相を伝え、衆生を救い済度する(三)

−台湾天国楽団での修煉体験


文/台湾の大法弟子

(明慧日本)

三.インドへの洪法の旅

 私は会社の社長とインドに業務視察に行ったことがあり、そのとき折り紙で作った蓮花をたくさん持っていきました。インドの人々は蓮花を大事に受け取り、大法を非常に支持し、敬意を表してくれました。インド人の素朴さが強く印象に残っていたので、去年再びインドに出張したときには、インドの責任者と天国楽団がインドに行く可能性について相談したことがありました。後に積極的に働きかけ、2007年10月にインドで行われる人権聖火リレーに参加する準備をしていました。多くの同修は、人権聖火は常人の活動なので、天国楽団の参加は不適切であり、言葉も通じないし、交通も不便だ・・などの理由を挙げ、各方面からの妨害が非常に大きかったのです。

 当時インドの責任者は、夢で天国楽団が自分に向かって歩いて来るのを見て、天国楽団がインドに行く条件はそろった、と悟ったそうです。しかし度重なる協調を通して、同修の間の隔たりやトラブルをなくす必要があり、それが出来て初めて天国楽団はインドに行けることになるのです。天国楽団は必ずインドに行けるという強い念を保ち、難度は非常に大きかったのですが、度重なる協調の末、やはり転機を迎えました。私たちがチケットを予約したとき、台湾佛学会から突然「条件のある人はニューヨークに行き、神韻チケットの営業を支援するように」と連絡が入りました。しかし、インド行きの飛行機のチケットはもう購入済で変更もできない状況で、本当に進むことも後退することもできない状況でした。しかし、佛学会の決定に協力するため、私たちはインド行きを取りやめることに決めました。奇妙なことに、私たちが心を放棄したとき、ニューヨークから突然「支援の必要がなくなった」との知らせが来ました。当時7人の同修は、すでに飛行機に搭乗したので、ニューヨークの協調者はこの7人のみニューヨークに行くことを同意しました。最後にはやはり最初の計画通り、インドに行くことになりました。

 インドの人権聖火リレー活動に参加したとき、私は古代ギリシャの女神の格好をして天国楽団の前を歩きました。まもなく市庁の入り口に着く頃、人権聖火支持者であるVIPの方が突然空を指差しながら、驚いた面持ちで言うのです!!「あれは何ですか?」その指さす先を見ると、空中に色とりどりの法輪が回転しているではなりませんか!! 当時のその荘厳な光景は本当に、「佛光が普く照らす」という言葉でしか表現できないものでした。

 2回目にインドに行ったのは、2008年10月7日から9日まで開かれたインド佛教復興祭と除妖祭のフェスティバルに参加するためでした。事前にある同修が夢を見たのですが、天国楽団がインドに行くことが決まり、インドの旧勢力は慌てて緊急会議を開き、対策を講じているとのことでした。やはり、妨害は大きいものでした。インド行きのチケットも購入し、インド国内のチケットまで予約したとき「インド政府が私たちの参加を取り消した」との知らせが来たのです。この知らせを受け、シンガポールの同修はインド行きを取り消すことを考えていました。インド、台湾、マレーシア、シンガポールの大法弟子は度重なる交流と協調の末、最後には共通の認識に達しました。チケットまで購入したのだから、行きましょう! 大法弟子の正念が足りれば、誰も妨害できないはずです!

 師父はこうおっしゃいました。「師父は大法弟子が行なった事を認めています。皆さんが法を実証し、衆生を救い済度するという願いから行うことは、私はすべて認めるのです。しかも、私の法身にしても、神にしても、あなたが行なってさえいれば、行なったことが更に偉大になり、更に素晴らしくなるようにあなたを助けます」(『二〇〇八年ニューヨーク法会での説法』)みんなの心が一つにまとまると、結果は変わりました。今回のインド行きの影響は更に大きく、天国楽団のことはインドの隅々まで伝わりました。

 10月6日、飛行機でインドに着いたときには大雨が降り出し、こんな天気では演奏は不可能だと心が揺れる人も現れました。私は言いました。「心配しなくていいです。今は大雨でも、演奏が始まるとお日様が出てきますよ」と・・やはりその数日間は雨が降ることはありませんでした。

 今回のフェスティバルには40〜50万人の仏教徒と各国の和尚、ラマ僧たちが参加し、場面は本当に盛大でした。このイベントは国家級の元部長夫人が責任者で、最初は天国楽団の参加を拒否していました。しかしイベントの数日前に、彼女は夢である楽団が自分に向かって歩いてくるのを見たそうです。目が覚めて、彼女は天国楽団が今回インドに来るのにはきっと何か特別な理由があると認識したそうです。翌日、彼女の態度が180度変わり、すぐに許可を下し、それ以降からは天国楽団の各地での演奏にも積極的に協力してくれたのです。

 この部長夫人の協力の下、天国楽団はインドで「スーパースター」の扱いを受け、連続3日間の日程は「満杯」で、表現しきれないほど忙しく走り回りました。その3日間は、車や飛行機で駆けつけ、目的地に着くとすぐに演奏を始め、演奏が終わるとまたすぐ他の場所に移動し、また演奏を始めるといった感じでした。トイレに行く暇もなく、睡眠も車内でとり、3日間で一体何回演奏したのかも定かではありません。「朝から晩まで演奏し、又夜から朝まで演奏した」といった感じで、ほとんどのメンバーは唇が破れてもまだ演奏しているといった感じでした。パレードの時、私は一部の佛教徒たちが両手を合わせ私たちにお辞儀をするのを見ましたが、長く待ち望んでいた何かに出会ったような面持ちでした。

大通りは人ごみで一歩前に進むのも困難な状況で、多くの民衆は自ら手をつないで壁をつくり、天国楽団のために道をあけてくれました。インドの30以上のメディアが報道を行い、天国楽団は彼らの報道の焦点でした。新聞の第一版はほとんどが天国楽団のニュースで、現場で生中継をしたテレビ局もあり、天国楽団の福音を全国各地に届けたのです。

 イベント主催者の大ラマ僧は天国楽団に群衆の前で1時間の演奏時間を設けてくれました。その翌日のナグプール佛陀宝塔での演奏の時、大法弟子は2、3曲演奏した後にインドの群衆を率いて「法輪大法好!」を高く唱和し、その声は空に響きわたりました。演奏終了後、大和尚、大ラマ僧及び群衆は天国楽団の後尾について歩き、大法に対して更に尊重するといった感じでした。本来寺院の正殿は土足で上がってはいけない規則になっていますが、天国楽団だけが破天荒に靴のまま中に入り、演奏を許されたのです。このことは現地の仏教徒からみれば、有史以来、初めての事だといいます。

 今回私たちはある国際学校の校長先生が創立した明慧学校を見学しました。この学校は来年竣工する見込みで、世界初の正式な明慧学校でもあります。校長夫人の話によると、この明慧学校の建設を決めた当初は水道がなく、建設も続けられない状況でした。校長先生は師父にお願いをしました。その結果、整地の時、地面を2メートルくらい掘り起こしたとき、なんと水が沸いてきたのです。

 明慧学校の宿舎で私たちは所狭しと、天井と壁に法輪がくっついているのを発見しました。まるで絵に書いたようでした。校長夫人が教えてくれました。これらの法輪は、以前は皆回っていましたが、後から固まってきたと言います。私は明慧学校の木にも多くの光る法輪がついているのを見ました。一つ目の明慧学校はこのように神聖で、特別だったのです。

 台湾の天国楽団創立以来、その足跡は台湾の隅々にまで届き、遠くは日本、韓国、東南アジア、西オーストラリア、インド、ヨーロッパ、グアム島、サイパン島にまで及びました。この2年間を振り返って見ると、天国楽団の大法弟子が歩んだ一歩一歩は、本当に「馳騁(してい)(注:馬を走らせるの意)万里妖陣を破る 黒手を斬り尽くして悪神を除く 汝に管わり大霧狂風舞う 一路の山雨征塵を洗う」(『洪吟ニ』の「征」)のようでした。

 以上は私個人の天国楽団での2年間の修煉経歴です。今後の道のりがまだいかに長くても、私は師父のご指導の下、世界の数千人の天国楽団の同修たちと共に、そして優雅な楽音と共に、一歩一歩を堅実に歩みたいと思います。

(完)

2008年12月27日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/12/15/191672.html