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私の根本的な執着

(明慧日本)私は大法を修練して5年になります。時に精進し、時に倦怠してしまいます。難に遭遇したら内に向かって探り、さまざまな人心を見つけて放下しているものの、よい効果を収めていないことに悩む日々が続いています。

師父は「圓満成就に向かって」で次のように説法されています。「修煉してしばらく経っても、まだ当初の考えのままなのでしょうか、人間のこの心があるからこそ、自らをその中に留めているのでしょうか? もし、そうであれば、わたしの弟子とは言えません。これはすなわち、根本的な執着心が取り除かれていなく、法の上で法を認識できていない、ということです。」 自分に何か根本的な執着があるのでは、と思いつつも、毎回「どうやら自分には根本的な執着がない」との結論で終わっていました。

昨日、家でちょっとした心性のトラブルがありました。忍んで家族との言い争いを放下して、人心及び執着を探ろうとしましたが、やはり家族に対して十分な慈悲心がなく、彼らを救い済度すべき衆生として見なせず、人間の感情範疇で彼らを変えようとしていただけだと気づきました。

夜、学法をしていた時に、急に自分が長い間放下できていない人心を見つけました。当初、大法に出会った時に、人間が修煉して神になれることが分かり、そのうち知らず知らずの間に自分が円満成就できると思うようになりました。しかし、この円満成就は自ら修煉して師父が要求している円満の基準に達したからではありません。特にこの2年間、師父が説法で残りの時間が少ないと聞く度、時間に対する執着が生じるようになりました。具体的にどの時点で迫害が終わって自分が円満成就できるというわけではないものの、もはや迫害が終わると思っていました。常人の友人に対して、そのうち長くても3年後以内に中国共産邪党は滅亡すると発言しつつも、近年来遭遇したトラブル、収入状況及びその他生活上の問題に対しては十分に考えず、旧勢力による妨害に対する否定もしませんでした。そして消極的になって、自分が真面目に仕事をする必要がなく、両親も自分が世話をしなくてもよく、自分の子供すら自分は面倒を見なくてもよい、すべてが師父の按配の中、すべてを師父に任せてよい、と思ったりもしていました。来年またはいつか邪党が滅び、正法も終わるのであれば、自分が憂慮しなくてもよいのでは、と思っていました。その一方、自分の修煉はあまり精進しておらず、幾たび師父が話されていたように、限られた時間を衆生済度に使うのではなく、迫害の終わりを待って、自分の「なんとなく」円満することを期待していました。

そこまで考えると、これはどれほどの汚い人心か気づくのですが、これは私の根本的執着です。これも最近修煉を怠って、特にオリンピックを目前に数人の同修が拉致されたにもかかわらず、自分が消極的になっていた根本的な原因でした。自分が悪党に迫害を受けていた時に、危険を冒して自分を救おうとしてくれた同修を思うと、なおさら恥ずかしい限りです。

そこで、もう一つのことを悟りました。この汚い人心自身も一つの生命です。かつて私はそれを培養していたのですが、今それを暴いて、徹底的に取り除き、解体します。師父の正法が何度も延長されましたが、私の執着した上記の要素も含まれていると思います。今後は心を静めて学法し、煉功と発正念に励み、もっと多くの衆生を救い済度できるように頑張りたいと思います。

以上は個人の悟りであり、適切ではないところは慈悲なるご指摘をお願いします。

2009年1月2日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/12/18/191773.html