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「矛盾」の中で内に向けて探すことと修煉を高めることとの関係を正す(二)

(明慧日本)日常生活の中で、私はいつも静かで、他人を尊敬し、謙遜するタイプなので、静かにのんびりすることも私の大きな執着心になっていたし、他人の前でメンツを重んじることも大きい執着心になっていました。しかし、この2年、意外にも自分すら不思議に思うような調整役を担当するようになりました。今までの人生で矛盾を避けてのんびりしていることが好きだった私は、今は矛盾の波のてっぺんに乗ったり、転んだりして、その中で自分の名利心、メンツを保つ心、自らを尊重する心、そして焦り、不満等の人心がすべて表に現れてきました。自分の根本的な利益への追及と法を正す修煉の要求との争いの中で、調整役になった私は、いつも修煉を続けるか止めるかの選択を迫られるほどの酷い環境にいたものでした。本当にまるで死ぬか生きるかの選択を迫られたようなものだったのです。

 消極的になり、極度に落ち込み、自分を傷つけられないように自己防衛のために、何度も修煉を諦めたこともありましたが、師父の相変わらず慈悲なる激励の中で、再び立ち上がり修煉への決心をするなど、自分自身と闘ってきました。師父は「あなたを圓満成就まで導かなければならないからです。あなたに何か必要なものがあれば、それを行うように教えるのです。」(『2003年アトランタ法会での説法』)と教えてくださいました。私は何度も諦めましたがまた立ちあがりました。諦めていた原因は、同修との「矛盾」と衝突の中で「わたし(我)」が我慢できなくなり、退却したからです。実は、すべてのいわゆる同修との「衝突」の間に一つの繋がりがあるような気がします。心はいつもこんな状態の中で「魔煉(試練)」されるのです。これは旧勢力が私の執着心をつかみ、私を修煉させないためです。私を邪魔することでここの全体を邪魔し、旧勢力は自分の企てた陰謀の目標を達するのです。しかし、幸いに私はそれを見つけ、即ち私の根本的執着心を見つけたのです。

 「生死の関を乗り越えられなければ圓満成就できません。しかし決して死ぬときの痛みを経験してから、はじめて生死を放下したと言えるというようなことではなく、それはただの形式に過ぎません。私は形式を重く見ておらず、あなたの心を見ており、心から本当にできるかどうかを見ています。」(『スイス法会での説法』)。中国本土の非常に危険な修煉環境の中で法を実証することは、通常の意味での生死の試練です。依然として生死の難関を乗り越えられると自分を信じていますが、現実のこの法を正す修煉の中で自分は「完璧な人生」を追求し、それを実現し、また「人と人の間で、お互いに仁愛の心を持ち、お互いに傷つけない」ことを実現するのが私の根本的な執着心であり、これこそ、私の生命の根本的な利益であり、この最も根本的な利益を捨てることができるかどうかが、私にとって生死の難関を乗り越えられるかどうかの試練であるのです。旧勢力は私のこの生死の難関を捉えて、まさしく私を死に至るまで追いやるつもりなのです。

 生活の中で私がかつて憧れていた、多くのいわゆるすばらしい物事を法の基準ではかってみれば、すべてが生命の輪廻の中から派生して変異した、なかなか直らない癖であり、これらの旧宇宙の廃棄物はみな師父の法を正す中で必ず取り除かなければならないものです。しかし、私たちは往々にしてそれを自分の生命の一部にして、必死に守って、捨てることを簡単に認めません。「矛盾」の中で苦しむとき、まさにこれらの旧宇宙の生命が最期のあがきの時、私たちの主意識がはっきりしていて直ちにそれをきちんと見分けて取り除くことができるならば、それはまさに生命の本当の私が昇華し、新宇宙に同化して、帰る時であるのです。一人の大法弟子として、私たちは新宇宙の法を悟り、成就させ、実証するだけであり、決して旧宇宙の自分自身だけの利益を追求する習性を守るのではありません。旧宇宙の生命の自己中心の特性はいつも他人を変えようとし、自分を変えたくないのです。実は、他人の善と悪を追及することは自分とはどんな関係があるのでしょうか。他人がどうであろうが重要ではなく、重要なのは他人の執着心を通して、いかに自身の足りない部分を発見してそれを改善するかということでしょう。私たちは往々にして「内に向けて探す」ことを他人に是正させる口実にしてしまいがちで、これは「内に向けて探す」本当の内包を理解していないからです。実は、「内に向けて探す」ことは、永遠に修煉者自分自身に問う一種の修煉のメカニズムで、向上と昇華の宝物です。

 修煉者はそれぞれの生死の難関があります。ある人は病の業力を克服しないといけないし、ある人は恐怖心に妨げられ、ある人は金銭に執着し、また功能に執着する人もいれば、円満を焦る人もいます。実は、これらのすべての難関とは、全部我々の根本的な利益に対する執着心であり、いずれも私たちが元々この世に生まれて来た本願ではありません。それを探し当てて、それを取り除きます。衆生を満載する法船に乗って、師父に随って宇宙の本性に戻りましょう。

(完)

 2009年1月7日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/12/29/192413p.html