日本明慧
■印刷版   

内に向けて探すことは修煉を向上させる秘訣


文/四川省の大法弟子 池蓮

(明慧日本)師父は毎回のように説法の中で内に向けて探すことを強調され、特に『オーストラリアの学習者に法を説く』の中で何度も心を込めて、物事に出遭えば内に向けて探すように強調されました。みんなは師父の話をしっかりと覚えて、そこで口癖のようになりました。ある人は面倒な事に出遭い、あるいは身体の調子が悪くなったり、何か思い通りでないことがあったり、もしくは矛盾した事に遭ったりした時に、みんなで互いに言い出すことで、他の人に内に向けて探すようにさせます。しかし、本当に心の難関に触れた時、内に向けて探すことを忘れて、いつも外へ向かって客観的な原因を探し、他の人の間違いを探しています。もし、内に向けて探すことを他の人を量る尺度だけにして、あるいはただ口先だけに留まるならば、それは決して本当に内に向けて探すのではありません。次に、私は自分がどのように、苦しみの中で本当に「内に向けて探す」ことの真諦を悟ったかについて語りたいと思います。

  かつて、私も一部の同修と同じように、常に自分がどのくらいの執着心があるのを数えていました。このようにすれば内に向けて探したかのようで、心の中で、見て下さい! 自分はもうすでにこんなにたくさんの執着心を探し出して、師父に取り除いてもらうことを望んでいるのに、師父はどうしてまだ取り除いてくれないのかと思っていました。事実上、自分は修煉しているのかと言えば、全く修煉していないのです。そこに座って自分の執着心がどのくらいあるかと思うだけで修煉と言えるのでしょうか。

  師父は『轉法輪』の中で、「したがって、今後煉功する際、さまざまな苦難に遭うでしょう。それらの苦難がなければ、修煉がどうやってできるでしょうか?誰もが和気藹々としており、利益についての衝突や心が乱されることもなく、ただそこに坐っているだけで、心性が高まることになるでしょうか? そんなことはまずありえません。人間は実践の中で本当に自分を錬磨しないかぎり、向上することはありえません」「しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと煉功の効果が上がらず、向上につながりません」と教えられました。

  数年来、私は巨大な難関の中で苦しみを嘗め、苦難に満ちて這うように歩んできました。私はとてももろくて弱い人間で、修煉してから出遭った苦しみの中のどれを取っても、その一つだけで十分に私を生きられないようにさせることができるほどです。しかし、今の私は何も恐れることはありません。私の心の中は固い一念があるからです。すなわち、師がおり、法があるので、恐れる必要はないのです。これらの苦しみは自分にその中から悟って高まらせるものです。しかし、自分の悟性はあまりに悪く、甚だしきに至ってはまだどのようにすれば本当の自分を修煉するのか、どのようにして本当に自分の心性を高められるかも分かりません。難の中で、私はそれを修煉の上で高める良い環境として見なしておらず、ただ他人のせいにして、心の中で、他の人は全て順風満帆に進み、私はどうしてこんなに苦難に満ちているのでしょうか。あるいは、表面上で私に苦しみをもたらすなどの不平をこぼして、口先で内に向けて探すと言っていますが、事実上、恨む心を深く心の中に隠して、どうして内に向けて探すことができるのでしょうか。

  最近出遭った一つの苦しみの中で、私は突然、この恨む心は私が前に進む道を遮る一つの壁だと悟りました。それを越えることができなければ、永遠に高まることができなくなり、私はどうして常人と取り合うことができるのでしょうか。私はこの恨む心を取り除こうと決心して、内心から他人を寛容し、他の人に感謝し、私が世に生まれる度毎の業力を取り取り除いてくれており、私の心性を高めるための助けとなり、また徳をもらっており、私は人に感謝すべきではないのでしょうか。そこで私は心から恨みを取り除きました。翌日、私はこの人に出会って、穏やかに彼と挨拶し、世間話をして、その時本当に全身が軽くなったと感じました。振り返ってみると、まさに師父の言われるように、その苦しみは何でもなく、しかしその時は確かに一度の生死にかかわる大きな難であると感じていました。

  ところが数日後、この苦しみがまたやって来て、私に全方面から圧力を感じさせました。この時、私はまた内に向けて探し、今度は私のどんな心に向って来たのだろうと思い、師父の言われる、「自分の敵を愛することができなければ、圓満成就することができません」(『オーストラリア法会での説法』)を思い出しました。私は自分をじっくり見て、魂の深いところから私は恨む心を捨てたのでしょうか。私は自分の「敵」を愛することをやり遂げたのでしょうか。私は時には同修とこのことについて話し合い、善悪応報などに言及したが、恨む心はその中に隠れて容易に発見することができず(人の罰があたるを思う心)、私の執着心が依然として存在することを示していました。

  私は自分の思想の根元を掘り続け、心から他の人を許すことができました。彼が人に大きい苦しみをもたらした時、彼はどれだけの徳を失い、どれぐらいの罪を犯したのでしょう。彼を待つのは何でしょうか。かわいそうではないでしょうか。同時に、彼は客観的に私の悟りが高まることを助けてくれており、私は確かに彼に感謝し、同情すべきで、ついにこの恨む心は哀れみに取って代わられました。

  師父が私たちに修煉を高める宝物をくださったことに感謝します。私はこのように長年修煉して、今になってやっとその真諦を悟ったことを悔しく思っています。これまでの修煉者が真に法を得なかったために、苦しんで幾世を修煉しても成就できないことを思い出しました。師父がこの一世で私たちを円満成就させようとしておられることは、大法弟子の大きな幸福です。私はこの「宝物」を永遠にしっかりと捉えて、この修煉を高める秘訣である「内に向けて探す」ことを永遠に覚えておきたいと思います。

  以上は個人の見解であり、ご指摘を願います。

  2009年1月15日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/1/8/193166.html