日本明慧
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10年間の修煉体験談(二)

(明慧日本)

  四、真相を伝える

  とても恥ずかしいことですが、私が配布した真相資料は少なく、毎回真相資料を持って外出した時、いつも爆弾をしまっているように戦々恐々となっていました。私はどのようにすべきなのか、私の進むべき道はどこにあるのか、私は繰り返し自分に聞き、師父に尋ねました。ある日、煉功する時に師父は私に1本の筆をくださり、そこで私は文字で真相を伝えることを始めました。

  修煉であれば、どのような道をも問わず、必ず苦しみに耐えることと執着を取り除くことに直面します。私は聡明ではなく、文字の基礎的な知識も深くないため、文章を作る時にいつも大量の資料を調べて、探し集めなければならず、それを選んで整理し、文章が原稿になった後に、更に満足するまで何回も訂正しました。

  私は大法を修煉する人が文章を書く時の出発点は、普通の人と完全に異なっていると思っています。私たちが文章を書く目的としては、読者である衆生に、大法のすばらしさ、修煉者の高尚と悪者の卑劣を理解してもらい、出発点は読者に善い知識を得させて、法を認め、救い済度されることです。ところが常人が文章を作る出発点は名・利・情で、自分の名をあげて、金儲けと自分を表現するためです。従って、修煉者は文章を作る時に決して気の向くままに不平を発露し、憤慨と恨みの感情を表し述べることをしてはならず、世間の名利のために文章を作ることはなおさらいけないことで、その代わりに衆生の救い済度と衆生のために責任を負う立場で、いつも衆生を最優先に置き、衆生の受け入れ能力と気持ちを重視しなければなりません。

  私はいつも自分を読者の立場に置いて、言葉の一つ一つを繰り返して考えて吟味し、どのような言葉遣いと論理で衆生に自然と大法の慈悲を感じさせ、私たちの善意を信じさせて、喜んで私たちの忠告を受け入れてくれるかを考えています。文章は全て繰り返し5回以上校正しており、大法と衆生に対して責任を負うためです。その上、私はまた文章が簡潔になるようにしています。古人が一筆も疎かに書かないと言ったことがあるように、他の人の時間を大切にするのは、他の人に対する尊重であるからです。

  五、着実な修煉

  修煉する前、私は気性が激しく、その上卑屈で疑い深く、執着だらけでした。修煉してから、心性の関門はずっとなかなか突破することができませんでした。しかし、毎回かんしゃくを起こした後に、繰り返し内に向けて自分を探し、探し当てる問題を項目毎にメモに記し、それから、私はどのように行い、どのように思うべきかを修煉者の角度から一つ一つ反省しました。自分に注意を促すために、私は多くのメモを書いて家の壁に貼り、たとえば、「責めることなく恨まない」、「自分を捨てる」、「人となりを要して考える」などです。家事をする時も、いつもどうして今日の関門を突破することができなかったのかを考えて、いったいどんな根強い観念が自分の障害となっているのか、その源を探し当て、それから自分に必ず正すように求めました。

  私と母との隔たりはとても大きかったのです。小さい時に病気にかかって母を探すと、母はいつも「大丈夫」と言いました。私は小さいときから目が悪くて、またかつて10年間も神経衰弱を患っていましたが、母は特に私を治療させることはありませんでした。成年後、いくつかの原因で、私と母の心の距離がますます遠くなり、隔たりはとても深くなりました。私が迫害を受けてから、母は良くあざ笑いや皮肉な言葉をはき、私は彼女に対してずっと深い憎しみを感じていました。ある同修の母は私に、「娘は私のことがとても気に入らないのよ」と言います。実際は私も母のことがとても気に入らなかったのですが、ただ口には出さず、深く心の中にしまっているだけです。しかし、修煉者として自分の母が気に入らないことは、どこかが間違っていると自覚していました。

  修煉者が自分を生んでくれた親に恨み言を言うのは、明らかに自分の修煉はとてもひどい状態だとやっと分かりました。自分の母さえ愛護し寛容することができなければ、修煉者の慈悲はどこで体現するのでしょうか。母はずっと私をかわいがって、いつもおいしいもの作って私の家まで届けに来ていました。ただ自分がいつも彼女の欠点を注視して、彼女を仇だと考えていました。私はいつも自分の基準と観念で母を量り、彼女がどのように私に対処すべきかだけを思っていました。

  母も1人の人間で、人間である以上欠点があり、私はあまりにも母に完璧を求め、自分に求めていませんでした。母はもうすぐ70才になり、私は彼女の人生観に対して非難するのではなく、包容するべきであり 、彼女の処世の態度に対して理解すべきで、決して恨むことはありません。自分の年をとった身内に対して、私は思いやるべきで、決して彼らに対して、私に至れり尽くせりの世話を要求するのではありません。世の中で修煉することは、 修煉するほど家庭は円融するべきで、決してますます疎遠になるのでもなければ、腹が立って心中穏やかでないことでもありません。修煉した覚者は一つの世界の衆生に責任をもって管理し、覚者の世界の中の衆生の思想も必ず各々で、行為は千差万別であり、覚者の境界はきっと慈悲で、包容であり、非難をしたりけちをつけるのではありません。

  ここで皆さんと一つの道理を分かち合いたいと思います。つまり、修煉の中でくれぐれもいつも自分の観念で他の人を量らないことです。あなたの観念が間違っている可能性があるからです。そうであれば、あなたの見た全ては心による変化の錯覚に過ぎません。自分の執着を捨てて、正面から他人の長所を見ることこそ修煉者の境界です。

  六、結び

  修煉する前、私はいつも自分がかわいそうな醜いアヒルで、やせて小さくてまた気が弱いのだと思っていました。修煉してから私は自分に、どこまで修煉できるかに関わらず、必ずへりくだって恭しい心を維持しなければならず、根気よく心性を修めて欲望を断ち切り続けるようにしています。今は、つらい思いを受けた時、私はできるだけ自分の内に向けて探し、利益を損なった時、できるだけ平然と対応するように自分に求め、心配事を感じた時、私はできるだけ法理によって対応しています。今は毎日のように身体を良くするだけでなく、心を広く持ち、進歩するように求めています。

  修煉してはや10年になりますが、その中で欠点は多く、艱苦と涙に満ち、まだまだ未熟です。邁進している同修との差はまだとても大きいですが、しかし私は努めて修煉し続け、努めて慈悲と寛容が出てくるまで修め、正果を得るように修め遂げたいと思います。

  ご指摘をよろしくお願いします。

  (完)

  2009年1月21日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/1/9/193218.html