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崇拝する心の危害について


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)私のいる町で去年の初め、大法を修煉して二年になる同修が不法に逮捕されました。彼女個人の原因はここでは言及しませんが、大法弟子が彼女を逮捕に至らせた原因について話したいと思います。

 この同修は、個人で診療所を経営していました。彼女の話を聞いて脱党する人は毎日30人にも上りました。それを耳にした同修にいろいろな人心が生じ、毎日この診療所に行き、彼女はどうやって真相を伝えているのかを聞き、彼女の診療所で一緒に患者と話をし、さらに患者と装って彼女がどのように真相を伝えるのかを聞いて学ぶ同修まで現れました。一部の同修は、私は二十年煉功しても功能が出ないのに、他の人は煉功してすぐこの功能が出たと言いました。しかし、これらの心によってスパイが出てきました。その結果、この同修は逮捕され、実刑判決を言い渡されました。現在、この同修は派出所で保証書を書いて釈放されましたが、その後、修煉しない保証書が無効になるという厳正声明を出しましたが、そうは言ってもこの同修にとって非常に痛い経験となったと思います。

 2008年中旬、非常によくできているある同修がこの世を去りました。この同修は天目が見える状態でした。数年間にわたって彼女を崇拝する同修が、彼女にだけ学び、法を学ばない状態になりました。彼女が何を言っても正しいと思い、ひいては彼女が中国大陸全員の大法弟子を呼び集めることができるとまで言っていました。彼女が死ぬ直前に、ある同修が彼女は非常に法から離れているのを見て、そこで彼女を崇拝する人に対して彼女の不足を指摘し、さらに彼女を崇拝しないように、そうすることは彼女にとって良くないと指摘しました。しかし、彼女を崇拝する人達は、自分達の崇拝する人に不足があると指摘されたとたん、ただちにこの指摘した同修と争うようになりました。また、一部の人は嫉妬心のため彼女を孤立させ、排斥していました。そのため、彼女は迫害され死亡しました。

 最近、またある同修が不法に逮捕されました。市内の大法弟子達は、彼女に対する救助活動をただちに行いました。しかし数日以内に彼女は他の労働教養所に拉致されました。考えてみれば、また崇拝する心によるものです。この同修は毎日真相を伝え、少なくとも8人は脱党させています。たくさんの同修はそれを聞いてから、彼女が逮捕される直前に彼女の人心はすでに膨らんでいました。ひいては、彼女に対して人心をなくすよう指摘するのではなく、かえって彼女を各地の座談会に招待し、パフォーマンスを披露させるようにしていました。地元の協調人もまた彼女と一緒に、学法や真相を伝える活動を手配していました。このようにして、彼女が5人の同修を連れて真相を伝えていたときに逮捕されてしまいました。その後、留置場で署名し、それから厳正声明を書きました。

 崇拝する心は、最初は容易に気づきません。例を挙げましょう。私達は派出所を起訴しようとして控訴の文章を書きました。ある同修甲さんは、他地区に住む同修乙さんが法律に対する認識が良くできているので交流したいと話しました。交流してから、私は乙さんの観点通り控訴の文章を書きました。書いてから甲さんに見せると、甲さんは乙さんが書いた部分を全部削除して、他の冊子の部分とすり替えました。削除しようとすることを私は嫌がっていました。そこで私は内に向けて探し、人心を取り除き、発正念をしました。しかし、私は乙さんと交流して崇拝する心を持ったために削除することを嫌がっているということに気づきませんでした。ある同修が、私に崇拝する心があると言うので、私は内に向けて探してみました。思い返せば、確かに崇拝する心がありました。ただちに私の住む都市で、乙さんがやってきて一緒に交流するという話を聞きました。私は同修と一緒にこのことについて切磋琢磨していたときに、突然、次の法理を悟りました。誰であろうと自分が法の中で悟った法理がある。しかし誰でも自分の突破しなければならないものがある。自分が悟ったものを至る所で宣伝すると、実はすでに自分自身を実証することになり、もし他の人が自分を崇拝したり座談会に招待したりすると、それはすなわち崇拝になってしまい、ただちに正さなければ非常に危険になり、知らないうちに法から逸脱することになります。

 崇拝の心がどうやって形成されたのか分かりました。このように、死んだ同修を崇拝する人達の理性的でない現れを見て、私は崇拝する心の危害に気づきました。崇拝する心は人の理性を失わせ、同修の間に間隔を作らせ、大法弟子が法を実証する道における非常に大きな妨害であると言うべきです。

 はっきり目覚めましょう。崇拝する心によって大法にもたらした損失はもう挽回できません。私達すべての人は、自分が良くできているからと言って、同修の中で自分を良いものとして見せるべきではありません。「顕示心にさらに歓喜心が加わると、魔の心に最も利用されやすいのです。」(『精進要旨』「定論」)と師父はおっしゃいました。私達すべての人は、どの同修にどのような特徴があるからと言って、またはどのような間違いがあるからと言って、その人を見本にしてはいけません。私達は同修が受けている迫害が自分と関係ないと思わないでください。私達は教訓の中で成熟し、これ以上間違ってはいけません。

 ここで師父の法を引用し、特に各地の協調人に警鐘を鳴らしたいと思います。その目的は、この面において正しくないところがあれば、師父の法を読んで、今後正しく歩めるようにするためです。「また、幾つかの地区では何々説法団などというものを勝手に組織して、各地へ行き、学習者の中で自らをひけらかしては詐欺を働き、個人を講演に招いて学習者の修煉を破壊、妨害している人もいます。この人たちは法を伝え広めているかのように見えても、実質上は、彼ら自身を宣伝しています。学習者はみな、わたしの法身の按配によって系統的に修めているのですが、ただ一部の学習者が悟っていないか、感じていないだけのことです。ならば、彼らは学習者を妨害しているのではありませんか! 特に、法を勉強してまだ日の浅い学習者は、それを見分けにくいのです。また、何千人もの会で何らかの講演をした人がいますが、話しているのはみな、その人自身のことで、ひいては大法の中の一文に対して定義を下したり、大法を解釈していて、その身体は学習者たちに向かって黒い業力と執着の物質を発しています。わたしが『轉法輪』の中で、こうしたことはしてはならないと明確に言っているのに、皆さんは、どうして考えないのでしょうか? 特に、これらを主催したり、招聘した責任者は、大法弟子にある程度の目に見えない障害をもたらしたかも知れないので、今となってはもう、大法弟子の責任者として、ふさわしくはありません。わたしの話を聞かず、大法の要求に従って行なわない人が、わたしの弟子でありえますか?これは大法と対立することをしているのではありませんか? これは大法を破壊することではないですか? 弟子たちよ! いつもわたしがこれらのことを指摘して初めて認識するようではいけません。実は、すべては法の中にあります。なぜ、本をよく読まないのでしょうか? ここであなたたちにはみな心を放下して、皆さんが経文と呼んでいる、わたしの書いた『精進要旨』を十回読むことを勧めます。 心が静かでなければ法を学んでも意味はないので、心を静かにしてから学んでください。」(『精進要旨』「猛撃一掌」)

 以上は個人の理解にすぎませんので、間違いがあれば慈悲なるご指摘をお願いします。

 2009年1月24日
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/1/20/193797.html