日本明慧
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「罪のない人」について


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)「7.20」以前、大法の「最大限に常人の状態に符合する」という修煉形式についての認識が不足して、私は「罪のない人」ではなく「ばかにしやすい人」になりました。自分の正当で合法的な権益さえ堅持せず、矛盾に向かったら一律に消極的に譲歩しました。家族の不正な思想要素を取り除くことができず、返ってそれを膨らませてしまいました。家族は私に「あなたは法輪功を修煉しているのだから、私が何をしても我慢すべきです」と言いました。「邪悪な魔が皆さんの放置していた隙につけ入っているに違いありません」(『精進要旨』「道法」)迫害が始まって、隙につけ入った邪悪な魔は大きくなり一律消極的に譲歩する点を利用してやりたい放題に迫害をして、ついに離婚にいたりました。

  大きな忍の心がある、というのは邪悪な魔を放任することではありません。不当な待遇にあったとき、大法弟子の「忍」は心が動かず、つまり個人利益の損得のために心が動かないことで、世の中のすべてを放任することではありません。更に自分は「罪のない人」だということを表現するためにじっと我慢して、受け流すことではありません。

  師は「人間にも同じく人間の生活空間と生存条件があるべきで、それも守る必要があります。人間はやはり生命と正常な生活を維持しなければならないのです」(『転法輪』)私達は常人のすべてを捨てなければならないと同時に、常人の中で正当なすべてを守る必要もあります。私たちが人間の利益を気にかけないからと言って、私たちが利益を放棄しなければならないということではありません。更に不正な要素が任意に馬鹿にしても我慢することではありません。不正な待遇、不正を押し付けられるときに、私たちは大法を迫害する不正な要素を取り除くことが、大法の表現形式を保護することをはっきり認識しなければなりません。これは大法弟子が師を手伝って正法をする表現であります。完全に大法の立場で問題を考えることができるかどうかは、それぞれ正法時期の大法弟子の基本です。再び「大きな忍の心」を口実に自分の弱さと恐ろしがる心を隠そうとすればこれは悟りがなさ過ぎ、人心を徹底的に放下することができない表現です。

  肝心なことは、私たちは本当に大法に対して揺るぎ無い正信があるかどうか? もし私たちが本当に大法を正々堂々と修煉していて、頭に共産党に注入された「共産党は一貫して光栄で偉大で正確である」という要素をすべて取り除いたら、なぜ自分の正当な権益が他人に侵害されたとき敢えてはっきり堅持しないのでしょうか? まさか大法弟子が侵害されて、ばかにされていることがよいことで正しいと思いますか? なぜ私たちは「撹乱されない、監禁されない」現状で満足しているのでしょうか。私たちが畏縮し自分の正当な権益を放棄するとき、邪悪にかろうじて生命を維持できる空間を残しているのではないでしょうか。

  以上は私が改めて師父評語がある五篇の文章(「二言三言:罪のない人」、「大法の威厳」、「何が本当の善ですか」、「悪を取り除いても正法修煉を忘れず」、「魔性を取り除く」)を習った後の個人的な見解です。不具合なところがあったら同修の慈悲な指定をお願いします。

 2008年1月28日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/1/26/194169.html