日本明慧
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「真・善・忍」を修煉し、私は寛容になった


文/甘粛省の大法弟子

(明慧日本)法を得たばかりの時、私は師父の教えに基づき、すべてのことにおいてうちに向かって探し、日常生活の中でも「真・善・忍」を努めて実践していました。子供の教育においても、身をもっての教育は言葉に勝るので、人にいじめられた時は、ありがとうと言うように教えました。ある時、息子が近所の子供に殴られましたが、息子は「ありがとう!」と言いました。しかしその子は、また汚い言葉で罵ったので、息子は帰って来てどうしたらいいのかと聞いてきました。私は、それでもありがとうと言いなさい、と息子に言いました。又ある時、近所の子が又息子を殴ろうとしていると、息子は身体をその子に寄せていき、「僕を殴って、クラスの子にもいじめられているんだからいいよ」と言ったのでした。すると、その子は却って殴りませんでした。

  同じビルに住んでいる子供たちはよく私の家の前にトイレットペーパーや、果物の皮、空き瓶、ガラスの破片を捨てたり、排尿することだってよくあるのですが、誰も掃除するという意識を持っていませんので、私は自ら掃除をするようにしています。私は5 階に住んでいますが、ある日、1階に下りた時、一階の住民に呼び止められ、うちの子供が彼女の庭にインクのビンを投げたと言うのです。私は、「怒らないでください、家に帰り子供をしつけ直します。私が拾いに行きますから」と言いました。

  私の態度がよかったので、彼女も怒りが治まりました。又ある日、家で休んでいると、慌ただしくドアをノックする音が聞こえてきました。誰がこんなにノックしているのだろうと思いながらドアを開けると、また1階の住民でした。彼女は不愉快そうな顔で、うちの息子が春雨のスープを彼女が干している布団の上に流したと言い、弁償するようにと言うのです。私は、もし本当に息子がしたのであれば弁償すると言いました。

  息子の部屋に行き、事情を聞くことにしました。1階の住民も一緒について来て、息子にどうして春雨スープを流したのかと問いただすと、息子は何のことなのかと、反応もできないままぼうっとしていましたので、私はてっきり息子がしたと思い込んでしまいました(台所に白菜と春雨があったので)。息子の唖然とした様子を見て、1階の住民は息子を叱責しました。「前回あなたがうちの庭にインクのビンを投げつけたのも私は許してあげたのに、どうしてまだ直さないの?」と喧嘩でもするかのように、彼女は怒り出しました。

  それまで沈黙していた息子が、ついに口を開けました。「どうして私が捨てたと分かりますか?」彼女は更に激怒しました。「あなた以外に誰がいるのよ!」彼女はそう言い張りながら、自分の推理を並べ立てるのでした。「6階の子はまだ小さいからそんなことはできないし、2階と4階の2人は学校に行っている。3階の子は家にいない。あなたがしなかったら誰がしたと言うの?」。私は彼女に言いました。「ここ数日間、私は家に居ませんでしたので、夫が帰ったら白菜と春雨のスープを作ったかどうか聞いてみます。こうしましょう。夫が帰って来たら聞きますから、もし本当にうちの子がしたことだったら、必ず弁償します。これでいかがでしょうか?」彼女は怒って帰りました。この時息子は、悔しさでこぶしを握り締め、ソファの上で泣いていました。夜になり、夫が帰宅すると、私が言い出す前に、息子は昼間の事を告げました。夫は息子を連れて1階に行ってらちを明かそうとしましたが、私は事を明らかにするだけでいいと言いました。

  翌日の昼頃、作ったばかりの水餃子を皿に入れ、居間に持っていく時、ドアを叩く音が聞こえたので、息子が開けると、今度は1階のご主人でした。彼は怒った様子で息子を責めました。「お前は一体何がしたいのか? あ?!」息子は何のことなのか分からず、ぼうっとそこに立ったままでした。何のことかと聞くと、彼は息子を指差しながら言うのでした。「お宅の子、今日又うちの庭に麺皮を流した」私は皿の中の餃子を指差しながら、言いました。「うちは、今日は餃子なんですよ。見てください、うちでは今日餃子を作りました。麺皮なんて作っていませんけど」彼は頭をかしげながら、不愉快そうな表情で帰って行きました。

  しばらくしてまたドアを叩き、彼が入って来て、すぐ息子に謝るのでした。「ごめんなさい、今日の麺皮は6階の子が捨てたようです。昨日の白菜と春雨のスープもそうでした。間違ってあなたを怒りました。許してください!」私は、ことがはっきりしたらそれでいいですよと言いました。

  彼が帰り、ベランダから下を見下ろすと、6階の子供の母親が一階の庭で片づけをしていました。大きなことではありませんが、これで一件落着となりました。近隣所はまた普段の静かさに戻りました。

  大法を修煉して以来、職場は私の修煉環境となり、いたるところに執着をなくし、向上させる要素が隠されていました。正月期間の当直は毎年大晦日の日を私に割り当てていますが、私はなんの文句も言わず、縁に任せ、自然に任せるようにしました。ボーナスの額は、他の人の3分の1しかありませんが、私は争うこともなく、修煉によって利益に対し淡々と対処できようになりました。

  ある時、夜間食費補助を20元多く支給され、上司に返すと、上司は驚いて目を丸くしていました。トイレの電気をつけっ放しにしても誰も消す人がおらず、蛇口の水が流れっ放しでも誰も締める人がいないので、これらも私は黙々とやります。廊下のゴミ箱がいっぱいになると、私は自ら捨てに行きます。事務所の床のモップがけ、拭き掃除なども私がやり、文句一つ言わず黙々と行っています。ある時、雑談をしている時、同僚の一人が、法輪功をやっている人は思想が悪いと言いましたが、私は冷静に言いました。「思想は人間の行動を支配します。思想の悪い人によい行動はできないでしょう?」。同僚はあわてて、人から聞いた話だと言い直しました。

  今の私は、真実を話すことを覚え、本当のことを行い、真の人間になり、人に寛容であることを覚えました。私を、寛容であるとか、忍耐力があるとか、心が広いとか言いますが、これらのすべては大法によるものであり、修煉から得たものです。「真・善・忍」を修煉することにより、私は善をもって他人に接することができるようになりました。

  個人の悟りにつき、慈悲なるご指摘をお願いします。 

  2009年1月29日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/1/27/194311.html