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「食べること」についての浅い悟り


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)当地のある労働教養所内に、不法に100人ぐらいの大法弟子が拘禁されています。労働教養所は各種の邪悪な手段を使って大法弟子を迫害しています。殴打を除き、よく見るのは大法弟子に肉や魚を使った料理を食べさせません。毎回の食事は肉なしの野菜料理です。もし野菜料理がなければ、白ご飯しかありません。食べるか食べないかということを考えると、ある大法弟子たちは毎日強制的に十数時間の労働をさせられ、多くの同修が「お腹が空いて落ち着かない」、「とても苦しい」などと感じています。

 今年、またもう一人の同修が悪警官に連行され、不法に労働させられ、労働教養所に拘禁されました。同修は彼女を見舞いに行き、彼女は「私は絶対に転向しない」と言いました。しかし、ご飯はふつうに食べます。労働教養所の悪警官は彼女の家族に、「私たちは彼女に野菜料理を食べさせることを制限していない、彼女は肉や魚、野菜料理を食べてもいいのだ」と言った(つまり、他の大法弟子には制限しているということ)。

 この悪警官が肉や魚を使った料理を食べさせることを制限していない同修は、「食べること」への執着がとても薄く、何でも食べます。一つのマントウ、少し残っているご飯も一食として食べられます。同修たちは一緒にご飯を食べるとき、ご飯ができたでも彼女は食べず、「食べたくない」と言って、他人の残した、料理が固まって腐りそうになったものを、彼女は無駄にならないよう食べきっているのです。食べ物に対して、彼女はずっととても大切にしています。しかも、少し残っている料理の汁も彼女は一滴も残しません。

 この労働教養所では、なぜ悪警官が「例外」にこの同修に肉や魚を使った料理を食べさせるのを制限していないのでしょうか。表面的に悪警官は「彼女は年寄りだから」と言いましたが、これは根本的な理由ではありません。この労働教養所では、多くの年配の同修はみな「禁食」の迫害に遭っています。私は悟りました。この同修は「食べること」に対する執着がないため、旧勢力はこの点で彼女を迫害しようがないのです(当然、私たちはすべて旧勢力の迫害を否定します)。しかし、ある同修たちは「食べること」の執着をずっと捨てておらず、いつもおいしいものを食べたくなり、またこれを食べたい、あれを食べたくないと思っています。しかも食べ物に浪費するなど、実際これは食べ物に対する執着です。修練者が捨てるべき執着心です。しかし私たちは気付かず、しかもある同修は「食べる」ことに対する執着がとても強く、だから旧勢力はこの点を握って迫害を実行するのです。

 師父は説法で次のようにおっしゃいました。「食事については肉だけでなく、どんな食べ物にも執着してはならず、他のものも同じです。私はどうしてもこれを食べるのが好きだという人がいますが、それも欲望です。修煉者はあるレベルに達すると、この心がなくなります。」(『転法輪』)。

 ある同修は、「私は辛いものが好きです。飲む水は絶対に熱いお湯です。○○は食べたくありません」などなど、実際これはすべて「食べること」への執着です! この心は小さく見えますが、邪悪な旧勢力は侵入しないところはありません。同修たちよ、私たちは着実に各種の人心を捨てるべきです、とても小さく見えるのも含む、自分がしばしば気付かない執着心も。

 他に、ある同修は料理に少しタマネギを入れるのが好きで、「出来上がった料理は香ばしい」と思っています。また、ある同修は糖醋蒜頭(甘酸っぱいニンニクの頭の料理)を食べるのが好きなどと言っています。実際、この種の食べ物はとても強烈で、刺激のある味です。しかも、多くの常人もこの種の野菜を食べません。息が臭くなることを避けるなどのためです。この種の食べ物を食べた後、排泄物に鼻を刺すような臭いを発することもあります。きっと身体の内部に絶対に、全部この混濁とした臭いに覆われているからだと思います。師父は説法の中で次のようにおっしゃいました。「人体から修煉の結果生じた多くの生命体もみな、そのどろどろとした匂いを嫌がります。葱や生姜、大蒜も人を刺激して欲望を起こさせ、たくさん食べると癖にもなりますので、それらのものを葷としたわけです。」(『転法輪』)なので、私個人の見方では、この種の刺激が強い味が濃い食べ物は、同修たちは少なめに食べたほうが良いと思います。当然、家にいる常人が好きな食べ物は作ってあげても良いのですが、自分は食べないもしくは少し食べるだけで良いと思います。

 以上は、自分の次元の少しの浅い悟りです。間違ったところがあれば、ご指摘お願いします。合掌。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/2/5/194869p.html