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自分の闘争心を認識

(明慧日本)私の闘争心は深く隠蔽され、自分でも察知できないほどでした。闘争心に関する同修の交流文章を読んでも自分とは関係ないと思っていました。トラブルに出くわしたときにはすぐに闘争心が出てきたとわかるので、自分にはもうさほど残存していないと思っていました。出てきたらすぐに取り除く、自分ではとてもいい感じでした。

 しかし私は、どうして他人とトラブルになるのかと、内に向かって探したことがありませんでした。問題が発生してから闘争心を意識しますが、内に向かって探していないので、闘争心を根こそぎ取り除くことができませんでした。

 常人のいわゆる情緒不安定の時こそ、闘争心を徹底的に取り除くチャンスだと思います。このときの自分はまるで一枚の白紙のようで、怒りや闘争心が現れたときはその白紙の上に書かれた黒い点のように、時間が経つほど、紙はより白くなり、黒い点はより一層黒く見えるのです。私は師父のご啓示であると認識しました。この心を深く探り、根こそぎ取り除く時が来たのだとわかりました。この問題が突出してきたのだと自分でも意識できたのでした。

 それはある日の昼頃でした。用事を済ませ主人と家に帰ると、些細なことで母親とトラブルになりました。私は心の中で、怒ってはいけないと自分に言い聞かせながら我慢していました。午後になって主人とスーパーマーケットに行きましたが、彼は安売りの牛乳を買いました。これで私は鬱憤を晴らすチャンスを見つけたのです。こみあげる怒りを主人にぶつけました。夜には子供の前でまたそのことを取り出して、愚痴をこぼすと、また無名の怒りがこみあげてきました。しかし又すぐに後悔しました。修煉者の言う事ではないように思えたからです。

 その後の数日間、ずっと考えました。どこかに問題が生じたので早く見つけないといけない、もう引きずることはできないと感じました。以前はこのようなことになると、生理期間中で、情緒不安定を理由に深いところまで探りませんでした。自分の執着を放任した結果、よくない要素に隙に乗じられ、間違いを犯しているのだと意識しました。同時に、闘争心が私の生活の些細な部分にまで浸透し、察知しにくくなっていました。トラブルや問題が発生したときにだけ闘争心が存在すると私は思っていましたが、そうではないと分かりました。

 例を挙げると、家事をするときにいつも思うのです。「どうして彼らはこんなにも家を汚すのだろうか?」 実は、こう思うことはもうすでに愚痴をこぼしていることで、他人を責めているのだという事を全く意識していませんでした。当時は発散する機会が無かったので、闘争心が隠れてしまっていたのです。続いて、私はやっと食事作りを終えました。しかし家族は、「おいしくない!」と言うのです。心の中では非常に不愉快で、我慢しないといけないとは分かっています。しかし、すでに闘争心が芽生えの状態であるとは、気がついていないのです。食事が終わり片付けをしていても夫は手伝う気が全くありません。彼も仕事で疲れていることを知っており、我慢しないといけないことも分かっていますが、それは表面だけの「忍」で、私を不愉快にさせているのは、実は闘争心であるとは気がつきませんでした。今はこれらの考えが現れてくるとすぐに、「闘争心が出てきた! 危険! 要らない!」と自分に警告しますので、トラブルが発生する前に取り除いてしまうことができます。

 私の理解では、闘争心は私心の延長であり、闘争心を取り除くと、私心もある程度取り除かれます。三つの事をしっかり行うと同時に、これらの執着心を軽視してはいけません。放任すると災いが尽きることなく訪れると思います。

 以上は、私個人の修煉体験で、同修の皆さんと交流したいと思います。

 2009年2月24日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/2/23/195958.html