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再び病業に対する認識について語る


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)今日、同修が書いた文章『師と法を信じれば、死の関門を乗り越えられる』を読んで、またその数日前、私もちょうど病業に遭ったので、自分の病業に対する認識を話したいと思います。私は1997年に修煉を始めました。

 修煉者は円満成就していない限り、多かれか少なかれ体に病業があると思います。特に、私達はみな常人社会の中で修煉し、常人社会の中で生活し、仕事をしています。常人社会のものはすべて業力を帯びており、あるものの業力はかなり大きいです。もし私達は三つのことをきちんと行えば、常人社会のわずかな業力は問題になりません。私は大法修煉者が一日にたくさんの業力を消すことができると思うからです。しかし、言えば恥ずかしいのですが、私はいつも時間の按配がうまくできず、時にこのプロジェクトに集中すると、他のプロジェクトが疎かになり、甚だしい場合は長い間煉功もできませんでした。だから私はこの数年、基本的に毎年2、3回病業に襲われます。しかし、私はその病業を気にしないため、病業がいくらひどくても、通常2日間を超えません。その上、動くことができれば、少し休んで懸命に立ち上がって正法時期の大法弟子のするべき事をします。

 これらの業力は生まれつき、少しずつ蓄えて来た(師父は私が常人社会の中で修煉できるため、すべては消しておらず、そのまま残こしてくださった)ものです。そのほかに常人社会で生活し、仕事をし、人と接触する時、絶えず積み重なったものもあると思います。 ふだん、もし自分に対して厳しく要求し、三つのことをきちんと行えば、学法している時、矛盾と難儀に正しく対処している時、日常生活で正念を発している時、心性を高めている時,煉功している時に隋時、業力は消去されます。どうしても体に消業の状態が現れることだけが業力消去ではない(当然ながら、これはただ私の個人の認識で、正しいとは限らない)と思います。当然ながら、病業の現象が現れたら、すぐ警戒しなければならないのです。さらに自分の修煉を厳しく要求し、執着を放下し、法を本当によく勉強し、きちんと煉功し、正念を発し、いつも人を済度することを考えます。要するに、正法時期の大法弟子として行うべきことをします。もしその都度、起きていることから病業を認識し、正法修煉と個人修煉の本質が区別できず、旧勢力に隙に付け込まれ、迫害されます。

 私が理解できないのは、ある同修は、体にちょっとした小さい「病気」や痛みがあると、本来、自分自身に残ったわずかな業力の原因であるのに、少しも耐えることができず、もう耐えたくなくなり、すぐ旧勢力のせいにするという考えです。このような考えは正しいでしょうか? このような考え方のもとで、正念を発して良い効果はあるでしょうか? この時、どのようにしたら自分の「病気」が治せるかということしか考えていません。この発した念は純粋ではないので、正念を発しても良い効果は得られないと思います。あるいは本当にすぐ内に向かって探し、執着を放下し、それから三つのことをしっかりと行うべきですが、これを行わず、いくつかの理由で自分の執着を覆い隠します。そうすると、かえって旧勢力に迫害される口実ができて魔難を強め、甚だしきに至っては生命の危険も現れます。ある同修は師父の説法を反面に理解し、口では旧勢力を否定し、旧勢力の存在さえ認めないと言います。旧勢力を認めないのに、どうして身体にちょっと不具合があるとすぐ旧勢力のせいにするのでしょうか? あまりに重く見過ぎているのではないでしょうか? 

 ある同修は身体にちょっとした小さい「病気」や痛みがあると、たくさんの同修を呼んできて正念を発してもらいます。私達はこのような方法が役に立つかどうかは言いませんが、同修はどうして病業をそれほど気にするのですか? あなたはあまりにそれを重視し過ぎているのではないでしょうか! 師父は教えてくださいました。「修煉して関門がとても大きいと思う人がいますが、実はそれほど大きくないのです。それが大きいと思えば思うほど、関門は大きくなり、あなたは小さくなるのです。若し気にせず、気に掛けなければ、緑の山さえあれば、薪が無くなる心配はなく、師もあり、法もあるのに、何を恐れるのですか? 無視すればよいのです。放下すれば、関門は小さくなり、あなたは変って大きくなり、一歩だけで乗り越えてしまいます。その難は何程のものでもありません。必ずそうなるのです。」(『シドニー法会での説法』)

 数日前、会社に出勤する時、午後3時ごろ、私は突然食中毒のような病状(昼ごろに会社の食堂で食事をした)が現れました。しかし、同じ会社の食堂で食事をした同僚達はみんな何もなく、私1人だけがこのようになりました。その時の病状はもとても激しいものでしたが、私は頑張って手元の仕事をやり終えました。その時はとても辛くてたまりませんでした。

 私は仕事を終えて始発駅からバスに乗車したので、最初は席がありました。しかし、私は途中で老人が乗車したのを見て、立ち上がって座席を譲りました。仕事を終えて家に帰る途中、私はずっと心の中に、師父が書いた詩『大法が好し』を黙読していました。これ以外、心の中には何も考えていませんでした。私は家の前に着いたところで、突然、涙が泉のようにあふれ出てきました。師父が私のために耐えておられることが分かり、心がとても辛かったのです。私はたくさんの事をしっかりと行っていないので、師父の慈悲なる済度に対して、顔向けできないのです。

 家に着いたら、あまりにつらくて我慢できず、全身に寒気がしたので、ベッドで何時間も寝ました。起きてから、体が少し辛く感じた以外、その他は全て良くなりました。私は茶碗一杯のおかゆを食べてから、時間を無駄にせず、正法時期の大法弟子のするべき事をしました。

 以上は私の病業に対する認識です。私は他の方面はまだよく修めていませんが、ただ病業に対してはいくつかの体験があります。もし話し方に善でない所があれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。ありがとうございます!

 2009年3月28日

(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/3/18/197298.html