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執着心を取り除くことは難しくない

(明慧日本)今日『週刊明慧』に掲載された「修煉の中で家族関係のバランスを取る」という文章を読み、同修が家族に対して表した大きな善、大きな忍にとても深く感動しました。そして、私も自分の家庭環境についての修煉体験を、皆さんに伝えたいと思います。

 私は2004年に結婚しました。舅も姑も共に大法弟子なので、私も大法の修煉を始めました。修煉は始めましたが、悟性が優れず、とりあえず毎日『転法輪』を読んでいました。法理の上では「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程の全てです」(『転法輪』)と知っており、必ず執着心を取り除くよう自分に言い聞かせていました。また師父に教えられた「真・善・忍は良い人か悪い人かを判断する唯一の基準」(『転法輪』)を毎日読んでいましたが、その内包を掴みきれず、どのように真・善・忍に従って修めればよいかが分かりませんでした。

 主人は性格があまり良くなく、少し気にかかれば怒り、人を思いやることを知らず、私に気遣うこともありませんでした。さらに、私たち二人の間には共通した認識がなく、まるで少しでも話せばすぐ喧嘩してしまうかのようでした。他の若い夫婦たちの間には、語り尽くせない会話があり、互いに配慮し合い、夫が妻に対してしきりに気遣う姿を見る度に、羨ましくて嫉妬し、心のバランスが取れなくなるなどの心が沸き起こってきました。その時、死にたいと思うことさえありました。

 修煉してから、これらは全て私が以前に作った業によるものだと分かり、私は夫婦間の睦まじさを求めることを再びしなくなりました。私は「情」とは修煉者が必ず放下しなければならないもので、「情」があれば放下しなければならないから、その情を持たないことはさらに良いことではないかと考えるようになりました。そして、私は毎日法を勉強し、煉功し、夫に対して無関心になりました。彼が仕事から帰ってきて、いくら疲れていても、私は彼に関心を寄せず、修煉者が持つべき慈悲心を全く持っていませんでした。時に彼はひどく怒りましたが、私は自分に絶対我慢しなければならないと言い聞かせていました。しかし、やはり「善」がありません。従って、その忍はとても苦しいもので、私はとても疲れてしまいました。彼が私を怒ることは私に徳を与えているのではないか、私は修煉者だから、まさにその徳を必要としているのではないか、とも考えるようになりました。私は精一杯我慢して、彼とひどく喧嘩をしないようにしました。しかし、我慢の限界に達すると、私は徳がもらえなくてもいいと思い、彼と喧嘩することもありました。後でそれをまた非常に後悔しました。私は時々、師父の写真の前に跪いて、涙が流しながら「師父よ、修煉はどうしてこれほどまでに苦しいものなのでしょうか?」と尋ねることもありました。

 私の舅と姑はとても善い人です。ただ舅は年を取っており、あまり稼ぎがないため、姑はお金をとても大切にしているようでした。家に必要なものを買う時になると、姑は常に私にお金を出させていました。私は腹がたって仕方がありませんでした。他の家庭では嫁を迎える時、舅と姑は大金を渡すにもかかわらず、私が結婚する時にもらったお金は少なかったのです。また、家庭の債務まで返済しなければなりませんでした。このぐらいならまだしも、ずっと私にお金を払わせ続けることに私は我慢ができませんでした。もし夫の給料が高いのなら話は別ですが、夫の給料はちょうど私達の生活分を満たすほどしかありません。一言で表現すれば、私はやはり堕落した道徳基準で自分を測っていました。私は「すでにとても良くできている。他の嫁は夫の両親にお金を求めたりしているではないか」と思っていました。私は修煉者として、お金をさほど重要視してはならないと知っていました。しかし、やはり心のバランスが取れませんでした。毎回姑にお金を渡す度に、表面上は何も言いませんが、私の心の中は煮えくり返っていました。「全く怒りや恨みを生じることなく、不平に思わないことこそが修煉者の忍なのです」(『精進要旨』「忍とは何か」)が守れませんでした。

 今日、同修が書いた「修煉の中で家族関係のバランスを取る」を読み、ようやく自分にはまだまだ足りないところが多いと感じることができました。どうして同じ大法を修煉しているのに、私はこれほどよくできないのでしょうか?体験文章の中で、同修は「一回自転車に姑を乗せて、都会の病院に病気を診せに行ったことがあります。当時、私はまだ食事も取っておらず、それに生理もきていましたが、私は何も言わず、姑を自転車に乗せて病院に向かいました。とても疲れていましたが、私はとても嬉しかったのです。完全に他人のことを考え、他人のために生きる人は本当に幸せな人で、苦しみのない人だと初めて体験できました」と書いてありました。

 師父は私達に「日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時にはいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。したがって、煉功にあたっては、高い、もっと高い基準で自分を律しなければなりません。」(『転法輪』)と教えておられます。私は今になってようやくこの数年間、自分がずっと受動的に苦しみに耐えていたこと、自ら修めていなかったことに気付きました。師父は喫煙の問題について語る時「悪いと知りながらやめることができない人がいます。それは正しい考えに導かれていないために、簡単にはやめられません。」(『転法輪』)と教えて下さいました。

 この道理が分かってから、私は言動の中にも常に他人のことを考えるよう要求しました。例えば、夫が毎日仕事を終え、家に帰れば彼のことを思いやり、彼にご飯を差し上げ、洗面用のお水を持ってきたりしました。夫は私達一家のために、毎日体力のかかる仕事をしていながら、何の文句も言わない、これは容易いことではないと思いました。こう考えると、私は自ずと彼を大切にするようになりました。再び他の夫婦の間で語り尽くせない会話があることを目にしても、人はそれぞれ性格が違う、夫は生まれつきあまりしゃべらない人なのに、私はどうして彼に完璧であることを求めるのか、と思いました。それきり嫉妬心や心のバランスが取れなくなるといった感覚がなくなり、かえって自分の夫は元々こんなにも優秀ではないかと感じるようになりました。夫は現在、私に対してとても優しくなりました。

 お金の問題でも、私は再び姑と言い争いをしなくなりました。私は常に、姑は二人の息子を育て、嫁まで迎えたのだから、それは簡単なことではない、それにもう年を取っているのだから、どこに出かせぎに出かけられるのか?彼女は私達にお金を求めるしかないではないか?夫の収入は多くはないが支えようと考えるようにしました。師父は私達に「無私無我」になるよう教えて下さっているではないか?私は自分が使えずとも、そのお金を舅と姑に差し上げるべきだと考えるようになりました。それから、姑が家庭で必要なものを買うように私に依頼すれば、私はすぐそれを買い、何の文句もなくなりました。何事についても他人のことを先に考えるというこの法理が分かってから、この執着心を放下することが本当に簡単になりました。以前のような、口には出さなくても心の中が煮えくり返っていたり、心がえぐられたりするような感覚がなくなりました。

 「三退(脱党)」を勧める時、善くない態度を取る人に対して、心が少し動じても「中共邪党の無神論にこれほど長く騙された人が全てを一気に受け入れることはとても難しい。彼はデマに騙されていて、真相が分からないのだ。法輪大法は素晴らしいと分からないのだ。私はどうして彼を恨むことができようか?」と思いました。ある修煉者が車にぶつけられたことについて、師父は「運転手がスピード違反をしたことは確かです。しかし、彼もわざと人にぶつけたわけではありません。彼は不注意で事故を起してしまったのではありませんか?」(『転法輪』)と教えて下さいました。衆生が邪党に毒害されて真相を受け入れない時、私はただ彼らのために心配し、悲しくなり、慈悲心により涙を流しました。

 常に他人のことを配慮するようになれば、私は大法の中で修めた洪大なる善に包まれ、心がとても広くなり、心地よく感じるのです。それはとても喜ばしいことです。私は常に考えています。慈悲で偉大なる師父よ、貴方はこれほどまでに汚い生命をこれほどまでに純粋にしてくださいました。貴方の弟子になれたことは、どれほど貴重なご縁なのでしょうか?私は世間にある全ての美しい言葉を持ってしても、貴方に対する尊敬、ご恩の全てを表現することができません。私はただ全力を尽くして三つのことを行うことで、貴方の慈悲なる済度に背かぬよう努めています。

 多くの執着心は全て「私」からくるものです。もし真に修煉しようと思えば、大法に従って修煉し、大法の要求に従い「他人のことを先に、自己のことを後にし、無視無我になり」、「いたるところで他人のことを考える人」になりさえすれば、多くの執着心を取り除くことは簡単にできます。なぜならその時、心は広くなり、あのような辛い感覚がなくなるからです。多くのことが耐えられるようになり、ひいては「忍耐」といった感覚までもがなくなります。

 最後に、執着心を取り除くことは難しくないことを皆さんに伝えたいです。

 以上は自分の僅かな体験であり、不適切なことについては同修の皆さんに慈悲なる訂正をお願いします。

 2009年3月29日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/3/25/197755.html