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「何かを耳にしたらすぐ内に向けて探すこと」に関する認識

(明慧日本)2008年12月18日から集団で法を学び始め、交流の中で一つの問題が提起されました。つまり、修煉者たちがパソコンのメンテナンスを頼っている1人の技術力を持った同修がいて、忙しい時は昼夜を問わず働いています。この同修自身に定職がなく、生活は家族に頼るしかありません。私たちが(修理代金として)お金を払おうとしても断られました。私たちは不安を抱きながらも、どうしたら良いか分かりませんでした。私は、「その技術者の同修は仕事を探すことができるし、仕事をしながらでも法を実証することができるから、支障はないと思うよ」と言うと、ある同修は、「彼はみんなのためにパソコンのメンテナンスをしていて、みんなが彼ばかりに頼っているから、大変忙しくて職を探す暇がないのではないか」と言いました。結局、何の結論も出ないまま発正念の時間が来ました。

  発正念が終わって、私の頭ははっきりしました。私たちは常人の考え方で物事に対処するのではく、法の上で交流しなければならないと思いました。明慧に掲載された「着実に内に向けて探す」という文章の中で、「何かを耳にしたらすぐ内に向けて探す」という内容を思い出しました。この文章を読んでとても啓発を受けたのに、物事に直面した時、どうしてまたも同修についてどうのこうのとなってしまったのでしょう。

  私は早速、内に向けて探し、技術者の同修が職を探す暇がないことは私にも責任があると思い始めました。私のパソコンはトラブルが起きるとすぐ人に頼んで彼を探して、時には(OSを再インストールする場合)何時間も費やしてしまったり、時には彼は自宅に持ち帰って夜中までいじったりしたのです。初めは同修が私のためにいろいろと助けてくれて、心の中はとても感謝していながら、また彼がこんなに多くの技術を持っていることはすごいことだ、と羨ましがり、甚だしきに至っては、彼の腕前が良くて、大法のために力を尽くしていることを崇拝してしまうことすらあります。しかしその反面、無償で彼の時間を費やして、心の中はいささか不安を抱き、食事のとき私はいくつかおいしいおかずを用意し、あるいはその同修のために果物でも買って来て、少し安心したような気がしました(今になってこれもまた人心と私心だと気づきました)。

  こうした中で徐々に、大小を問わずパソコンのトラブルが起きたら、彼に電話をかけたらすぐやって来るから、待っていました(依存心)。時には彼は、「今日は用があるから、明日にしよう」と言います。これは私に支障をきたし、法を実証する大事なことだから、昼間に時間がなかったら夜にまた確かめようと思いました。このようにして、相手が法を学んだのか、疲れているのではないか等を一切気にせず、自分だけのことばかり考えて、まるで彼が来なかったら、私が法を実証することを邪魔しているかのようでした。これはちょうど師父が『転法輪』の中でおっしゃった和尚のストーリーと同じようです。自分が技術をちっとも学ぶ気がなく、いつも当たり前のように技術力を持った同修を思うままに呼ぶばかりで、彼が私のためにサービスするのは当然だと思っています。一方、その苦労をしている技術者はちょうど火をたいてご飯を作る小坊主に似ていて、苦しくて疲れ、時には食事さえ省くこともあるにも関わらず、私は「どうして職を探さないのか」と指摘するのは、明らかに修煉者としての善の心とは違っていました。この時、私は『精進要旨』「境界」の中で師父が、「悪い人は嫉妬心の行き着く末に、自分のため、怒りのために、自分のことを不公平だと言います。善なる人は慈悲心が常にあって、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」という説法を思い出しました。師父の法理からこれは間違いなく嫉妬心であることをはっきりと私に教えておられ、私は必ず修煉する中で取り除かなければならないと思いました。

  私は引き続き内に向けて探して、どうして技術者の同修が忙しくて来られなくなった時に、私は依然として来させようとしたのか、と自分に問いかけました。安全で便利、無料(隠された利己心)、そして自分のことだけを考えていました。私の支障をきたしてはいけないと考え、同修が疲れているかどうか、法を学んでいるのか等の都合も考えず、彼の仕事のプレッシャーを軽減するために正念を発して、加持することもしませんでした。

  筆をここまで走らせると、何年か前にもう1人の技術者の同修にパソコンを教えてもらったことをふと思い出しました。2、3日連続して教えてもらっても上達せず、最後にその同修は一本の電話で呼ばれて行ってしまいました。それで私は彼が根気よく教えてくれないことに愚痴を言い、彼がもう少し根気よく続けるなら、私はできたのにと思いました。その後しばらくの間、彼は警官に強制連行されました。私はそれを知った後に、直ちに彼には漏れがあって、法をよく学ばず、状態はあまり良くなかったという一念が浮かびました。今思うと、もし私が彼の時間をそんなに多く占用しなければ、どうして彼を責めることができるのでしょう。仮に同修が良く行っていないとしても、私は無条件に彼のために正念を発して、加持するべきで、彼は実に多く費やしすぎていたのです。このような良くないことは決して「申し訳ありません」の一言で済ませられることではなく、これは一種の罪悪であり、今後の修煉の中で補わなければならないと思いました。

  この教訓を同修に知っていただくために、私は次のように提案します。

  一、パソコンをお持ちの同修は、できるだけ簡単で必須な操作や技術をマスターすることです。『ゼロから資料拠点を創立する』という文章の中に具体的な指導内容があります。

  二、難しい問題を解決する時に、技術者の同修が法を学んだかを配慮する必要があります。

  三、同修の貴重な時間を占用しないために、安全の問題も配慮し、必要でない限り、できるだけ常人の店を利用することです。

  四、同修にメンテナンスを頼んだ時に必ず料金を支払うことです。技術者の同修が受け取らない場合、きちんと法理によって説得して、どうせ誰に頼んでも料金をとられるから、たとえお互いに修煉者同士であっても、「失わないものは得られず」という法理があり、われわれ修煉者は人心や人情を取り除くことが修煉そのものなのであって、人情やきまりが悪い等の人心を助長するようなものをすべて捨てて、徳を失わず、同修に難を加担することをしないようにしましょう。修煉はとても厳粛なことだからです。

  五、技術を持った同修も法の上で物事を考慮し、何もかも引き受けることは考えものです。技術上の問題でなくても転々とバスを乗り換えて、行ってみたらパソコンは何も問題がなく、まったく正常に運転していることがあります。言ってみれば、これは技術上の問題ではなく、まさに心性の問題なのです。

  その他、技術力を持った同修もあまり大幅に責任を負うことを避けるべきです。四方から押し寄せることは、自分の法を学ぶことに支障をきたすに決まっており、明慧ネットさえ回覧することができなくなり、この時、自分の何らかの心の執着を捨てているかどうかを探すべきで、修煉者はそこまで忙しくすべきではないと思います。以前、明慧ネットで1人の技術者の同修が忙しさのあまり食事を取る時間さえなくなり、そのうちゆっくり睡眠を取る時間がなくなり、昼夜休めずに忙しくて、とうとう彼は身体が崩れたことでようやく目覚めました。これは一種の邪悪の迫害であることを認識し、携帯等をすべてオフにして、法を学び、正念を発して、法によって自分を正し、パソコンを使っている同修たちも正念を発するようにしました。それ以来、同修がパソコンのメンテナンスを頼んできたとき、彼は、今法を学んでいるので終わってから行こうと思っていたら、間もなく、パソコンが直ったとの電話がかかって来たというのです。

  以上は個人の体験談で、適切でないところがあれば、ご指摘願います。

  2009年4月9日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/1/1/192720.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2009/1/10/103793.html