日本明慧
■印刷版   

困惑の中から真に歩き始める


文/河北省の大法弟子

(明慧日本)私は1998年に修煉を始めました。この数年来は風雨の中で修煉し、法理を悟った後の喜びもあれば、心性を高める魔難の厳しさを体験し、修煉においてつまずいて転んだときもありました。しかし、師父の慈悲なるご加護があったからこそ、今日まで歩むことができました。それでは、私の修煉の少しばかりの体得を、師尊と同修に報告したいと思います。  

  一、迫害を暴き出し、同時に人心を修める

  師父の評注経文『当地の民衆に向けて当地の邪悪を暴露する』が発表されてから、自分がこの数年来に受けた迫害を暴きだし、邪悪を暴露し、真相を伝えなければならないと認識しました。 

  これを認識できたとき、いろいろな思想業力の妨害に遭いました。恐怖心が現れ、迫害を暴露したときに、悪人等を激怒させ、報復されるのではないかと恐れたのです。そこで私が思ったのは、師父の要求通りに行えば、宇宙のすべての正の神と師父の法身が必ず守ってくださり、身の上に危険が何も起こらないと確信しました。自分の心理状態を正しく持っていれば、旧勢力は迫害する勇気もないと思いました。

  私は絶えず妨害を取り除き、次第に意志が確固たるものとなり、そして、この数年来受けた迫害の詳細を書き出し、明慧ネットに投稿しました。真相を伝える資料として電話番号も添付しました。当初は私の主意識が邪悪に大きく妨害されるのを感じ、発正念のときは意識がはっきりとせず、ただ、師父に加持された念を強く感じていました。

  迫害を暴露する内容を真相資料に作り変え、当地で配布することにしました。私の勤め先の周りと、邪悪の拠点の周りにも多く配布し、邪悪を震え上がらせる事が出来ました。当時は正念が強く、恐怖心がなく、悪人等は私を困らせるようなことはなかったのです。しかし、同僚や知人の反応を聞きますと、効果は理想的ではなかったことが分かりました。そこで、周囲に起きたすべてのことは自分の心と一念によるものであるとは私が承知していました。そこで、内に向けて探したところ、資料を配布していたときに、歓喜心、闘争心、他人に認めてほしい、理解してほしい、同情してほしい、悪人を叱責してほしい等などの執着心が見つかり、これによって多くの人々に理解してもらえなかったようでした。執着心を認識できましたので、これらを修煉によって取り除くべきだと決心しました。

  二、当地の邪悪を暴露し、同時に人心を取り除

  協調人の助けで、私は幸運にも邪悪を暴露する担当チームに参加することが出来ました。初めて悪人の悪行を暴露するとき、同修達はいかなる観念もなく、効果がよく、不法に収容されていた同修は間もなく釈放されました。しかし、後に同修が連行され収容されたときは、同じような方法で暴露したのですが、効果が良くありませんでした。それは、私達が歓喜心、闘争心、結果を求める心、または共産邪霊の文化を「規模が雄大で勢いをすさまじくやらなければならない」などが入り混じり、悪人を震え上がらせようとすることなどの執着心が生まれ、しかもこの迫害が人対人の迫害と認識したことによって、同修の救出を遅らせたのです。

  確かにこのやり方では、最大限に悪人を震え上がらせたことは事実です。彼等は大法弟子に対して軽々しく迫害したりすることが出来なくなりました。他県では依然として迫害の状況が厳しく、我が県では環境が割合良くなりました。しかし、迫害されている同修の中に救出できなかった同修もおり、その家族と一部の同修が邪悪を暴露することに対して抵抗感を持ち始めたのです。ある同修は直接面と向かって真相を伝えるべきで、それでも解決できなければ次の手として暴露するべきだと主張し始めたのです。私は両方同時に行えばよいと主張しました。このようにすれば迫害を止めさせることが出来ると思いました。同修達はこのことについて数回の交流を重ねました。結果として纏まったのではなく、問題を複雑化にしたのです。次に交流しようとしたときは、同修が来なくなり、全体の協調に不協和音をもたらし、衆生済度と同修の救出に悪影響を与え、邪悪に隙を与えたのです。

  同修は私に対して、物事に対処するとき「悪」の意がある、または「基点」と「心態」に問題があると言われました。私は内に向けて探しました。恐怖心、闘争心、怨念や恨み、自分を実証する心などの執着心が見つかり努力して取り除きました。恐怖心によって、邪悪の迫害を暴露することを重く見過ぎていたため、または、暴露の基点が悪人等を震え上がらせるためであり、衆生を救うためではないことによって、闘争心と結果を求める心が生まれ、これが同修たちに問題と矛盾を発生させた根本的な原因であることが分かりました。原因が分かれば、その恐怖心がどこから派生したのかを探しました。

  私は幾度も迫害を受け、師父のご加護があり、自分の生死を放下することが出来たこともあり、悪魔の巣から脱げ出すことができました。そして、自分が世俗に未練がなく執着心が無いと思っていて、必要となれば生命をもって大法を守ることが出来るとも思っていました。しかし、邪悪の迫害に対して、なぜ邪悪に指一本でも触れさせてはならないとの強大な正念がなかったのでしょうか? この体得文章を書く前に、私の思惟が突然明瞭となり、それは矛盾と衝突を恐れていたからと分かりました。それから、今まで洗脳などの迫害を受けたとき、すべて師父のご加護により、重大な病業が現れ釈放されたのです。

  この数年来に関を乗り越えるたびに、自分が正念を持って正々堂々と乗り越えるのではなく、いつも師父と大法に頼っていました。だから、邪悪な警官に出くわしたとき、最初の一念は身体にどのような病業が現れて脱出するかにありました。このような考え方は数年前であれば良かったのですが、今はすでに円満に近い大法弟子であり、神が人間世界にいるのと同じように、私の体には無数の原子、中性子などを持っており、法を実証し、衆生を救い済度する目的であれば、どのような方法を用いても良く、師父の法身の守りもあり、出来ないものは何も無いと思います。そして、この規模が雄大で勢いのすさまじい宇宙の正法が間もなく終結に迎えようとするときに、大法弟子として強大な正念をもち、大いに神の奇跡を顕し、法を実証し、衆生を済度し、これは私が出来る能力を備わっており、やらなければならないことでもあります。なのに、なぜ人間の方法で魔難から脱出しなければならないのか? それは自分に対する屈辱では無いでしょうか? 師父の顔に泥を塗るようなものでは無いでしょうか? 神はこのようにしますか? 認識ができればそれを改め、それも自分を昇華させるよい機会でもあります。

  同修と矛盾を生じたとき、私は逃避するような方法を採り、直視しようとしませんでした。自分が同修に責任を擦り付けられていても、それを説明しようとせず、何時も声を挙げずに忍耐していました。その忍は法の中から修煉によって出来た「心が動じず」ではなく、一つ間違えばトラブルに巻き込まれ、議論や自分に対する叱責を恐れていたからです。ですから、内に向けて探し、自分を修める事たけ考えていたのです。勿論、内に向けて探すのは間違いではなく、問題は自分がそれを利用して執着心を取り除いていたかどうかにあります。だから、執着心が完全に取り除くまで、同じ矛盾を繰り返すのです。ここで慈悲なる師父の度重なる按排に感謝いたします。そして、私が最終的に恐れる心の根源は「逃避」から派生したことを悟りました。

  師父が『精進要旨』「再認識」の中で「あなたは修煉でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させることで、それを取り去っているのです。皆さんの向上こそ、この上なく重要だからです。真にこのように向上することができるのであれば、皆さんは純粋で浄らかな心の状態の下で行うことこそ、最も良いことで、最も神聖なことなのです」と言われました。

  師父の経文を学びながら、他の空間に長期にわたり存在していた恐怖心、逃避心などの物質が瞬間に解体され、体が軽くなり、今後はどんな矛盾に出会っても直視することが出来るようなったと感じました。それは前提条件として自分の修煉がよく出来、穏やかな心で、いかなる観念ももたずに、心の奥底から同修のためと交流しさえすれば、きっとよい結果を得られるに違いないと思ったのです。

  ここまで書いたとき、長年私を困惑していた恐怖心が瞬く間に取り除かれ、矛盾も雲のように散って行きました。今後は更なる慈悲な心態で邪悪の迫害を暴露し、衆生に真相を伝え、ある同修が悟ったように、真の神となり、妖怪を照らし出す鏡を使い悪人の悪行を暴き出し、彼等が醜い、愚かで無知な自分を確認し、危険な境地に立たされたことを知り、慈悲なる佛法は彼らの身近にいることを感受させ、迫害を停止し、理知をもって自分の素晴らしい未来を選択して欲しいのです。そして、私達が大法の中で修煉によって、生まれた慈悲心を持って、もっと多くの衆生救い済度しましょう。

  個人の悟りであり、不適切なところがあれば、慈悲を持ってご指摘してください。

  2009年4月27日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/4/5/198368.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/12/7/102809.html