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蘭州市:法輪功修煉者・関自平さんが7年の冤罪を着せられる

(明慧日本)関自平さん(30代男性)は甘粛省蘭州市西固区の河口南鎭のビニール工場の従業員で、法輪功を修煉するがために警官に強制連行された。2000年から2007年まで7年間冤罪の迫害を受けて、期間中に手錠をはめられ、10数日連続吊るされる苦難を受けた。

 2000年11月7日、関自平さんが世の人々に真相を伝えていた時、真相を理解しない人に不法に濡れ衣を着せられて、蘭州市の新城派出所の警官に蘭州市西固区の寺児溝留置場まで強制連行された。期間中、獄吏長は不法に彼の着用しているオーバーやセーター、シャツ等の身の回り品を自分のものとして占有し、そしてぼろぼろな大きい綿入れの服と1枚のシャツに入れ替えた。関自平さんは手錠と足枷等の刑具をつけられて、毎日ベッドに伏せてスイカの実を選別するようにされた。彼はいつも早朝の4、5時に起こされ、夜の11、12時まで働いた。長期にわたり高所から見下ろしたため、元来持っていた極度の近眼(メガネをかけることは禁止されている)は日暮れになるとスイカの実が見えなくなったので、刑務所の役人は仕事を昼間にさせるようにした。

 関自平さんは後に不法に5年の刑罰を科されて、甘粛の天祝県刑務所に拘禁された。刑務所の役人の張学武は電気ショック棒で彼の頭、首等を殴って、煉功を許さなかった。1週間が過ぎ、彼は蘭州大沙坪刑務所の1監禁ブロックに移送された。刑務所の役人たちは「手柄を立てる」ために、一日中食事もせずに、家に帰らないで事務室に残して「転向」を強化したが、思い通りにならなかった。後に刑務所の所謂「活動」に参加させて、幾日幾夜小さい腰掛けに坐らせた。何も食べさせず、眠らせない中で、目の前に数千ワットの大きいランプであぶったり、頭の上から冷たい水をかけたりした結果、顔が黒く焦げ、また痩せて年寄りじみていた。目は血走った細かい線を全部敷き詰めたように、唇も乾いて裂けた。警官はまた関自平さんが幽霊みたいだと恥を知らずにからかった。

 蘭州刑務所はすべての監禁ブロックの犯罪者に向って、法輪功を誣告し罪に陥れたビデオを放送した。所謂「転向に功績がある」刑務所の役人に1千元から数千元の賞金を出す上、無料で各地に旅行しに行かせた。それぞれの監禁ブロックは「転向」を刑事犯の減刑の採点制度とし、指定された刑事犯は刑務所の役人と法輪功修煉者の迫害に協力すれば、奨励を受けたり減刑されたりする対象となる。

 関自平さんはいわゆる技術の学習を強要された。彼は試験に参加することを拒絶したため、警官に外まで引っ張って殴られたり蹴られたりされた末、地上に倒れて、立ち上がるように命令されても相手にしなかったことで、彼らは引っ張り上げ、また一度殴ったり蹴ったりした。そしてしゃがませるの繰り返しだった。それから、また監禁ブロックの役人に殴られたり蹴られたりされた中で、1つの握りこぶしが胃蔵にあたったことにより、しばらく呼吸困難となった。後に彼の両手は事務所近辺の樹木にはめられたが、関自平さんは手錠を緩められるまでずっと絶食し続けた。

 1年余り後、刑務所はまた1ラウンドの迫害をし始めた。関自平さんは強制的に禁足室に閉じ込められて、警官は彼の両手に手錠をはめて中へ引っ張るようにした。百メートルあまりのセメントの地面で、中に引っ張って入れた時、ズボンは擦り切れて、手首の皮も破れた。間もなく、警官は関自平さんに対して次のような1セットの刑罰を施した。大きい足枷をつけたまま手錠と一緒に連ね、それを「串心リョウ」と名付けた。人は腰を起こせず、しゃがんでしか歩くことができない。

 2005年11月6日は関自平さんが刑期満了を迎える日である。しかし警官は関自平さんに「転向」する気配がないと見て、この日、彼を直接蘭州市の?家湾洗脳班に護送した。邪悪な洗脳計画が失敗したので、警官は彼を禁足室に閉じ込めた。ここの迫害の残虐さは刑務所よりずっと上回っており、何十もの禁足室は一軒に1人の法輪功修煉者を拘禁した。ちょうど厳冬で、暖房のない監房は氷室のように寒かった。関自平さんは一枚の薄いセーターとオーバーに薄っぺらのズボンを身に付けただけで、背を氷のように冷たい鉄の扉にくっつくように寄せられていた。両手は頭のてっぺんに挙げて鉄の扉の上に吊るされて、食事する時、寒くて全身が震えた。禁足室に3カ月ほど閉じ込められて、その上24時間吊るされ続け、それは7、8日にも及んだ。10日か、何カ月、甚だしきに至っては更に長くして、まったく睡眠を取ることができなかった。くたびれたら吊るされたまま昏睡してしまい、夏場はひどく暑くて、蚊に刺されることになる。

 関自平さんは10数日吊るされ、そして禁足室でただマットレス1枚で1カ月近く閉じ込められた後に、ようやく王金平さんと一緒に禁足を解除され、洗脳班2階の部屋に戻った。2006年3月、関自平さんは警官の命令に従わず、訓練に出て行かなくて、列に入らなかった。走らなかったため、再び階下(1階の部屋の鉄製寝台の上)でとぎれとぎれに1カ月手錠をはめられていた。

 2007年春、洗脳班の役人は関自平さんにひなたぼっこをしに行くように求めた。しかし、関自平さんが拒絶したため、役人は彼を坐っていたベッドから事務室まで引っ張って行った。ひとしきり殴ったり蹴ったりしながら「どのようにあなたに対応したらいいのですか?あなたは私たちの仕事をやっていけないようにさせているのですよ!」と罵った。関自平さんは「あなたたちは私を迫害して、私はすでに6年も不法に拘禁しています。私は出て行って、家に帰りたいです。」と言った。彼らは「出て行くなら手続きをして、『四書』を書いて署名しなければなりません」と言った。関自平さんは「どうして書かなければいけないのですか?私は犯罪をしたのですか?犯罪をしたとしても、私はすでに刑罰を受けました。その上、社会にさえ帰っていないうちに、またここに閉じ込められて、これはいったい何なんですか?これでも刑務所と言うのですか?学校だという以上、世界で人の命と自由を剥奪するような学校はどこにあるのですか?あなたたちのところはまったくの収容所で、あなたたちは私たちを迫害しているのです。」と聞き返した。彼らは「そうですとも、私たちはあなたたちを迫害しています。書かなければ死ぬまで迫害するから、告訴しても構いません」と言った。

 関自平さんは刑務所に不法に5年間拘禁された後に、蘭州市の龔家湾洗脳班に不法に1年7カ月拘禁された。2007年7月まで、関自平さんはようやく龔家湾洗脳班から離れることができた。

 2009年4月27日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/11/25/190398.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/12/7/102809.html