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「法を得る」ことについて


文/台湾の大法弟子 倪宝彩

(明慧日本)先週末、台湾の北区輔導員の学法交流会を行いました。元は輔導員の交流会ですが、私がいたグループにちょうど法輪功を始めてまだ半年ぐらいの新しい学習者が一人いました。交流した時、彼女は、いつも耳にするよく分からないいくつかの言葉について質問しました。その一つは「法を得る」です。ある親切な輔導員は自分の理解を話しました。「大法の経文を学び、そして煉功さえ始めれば、『法を得る』と言うことができ、つまり法輪大法という宇宙の大法を得たということです」その時、みんなはこの同修が述べたことに対して、特に異なる見解はないようでした。同修の間でいつも互いに紹介する時、自分は何年何月に「法を得た」とか、交流文章の中でいつも同修は、自分が「法を得た」経歴などを述べています。

 今日の午後まで、『洪吟』の中にある「得法」の「真に大法を修すれば、唯此れだけを大と為し、大法に同化す。他年(いつか)必ずや成る」を暗記していた時に気づきました。師父が法の中で論じられた「法を得る」ことは、字の表面の浅い意味の「大法を得た」ということではありません。「法を得る」には基準があり、真に大法を修め、しかも法を何よりも最優先にしなければならず、さらに大法に同化して初めて成就することができます。私達がよく言う「法を得る」は、厳密には「入門」としか言えません。

 わずかな体験ですので、足りない所は同修の慈悲なる指摘をお願いします。

 2009年4月30日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/4/24/199531.html