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集団学法で数量のみを重んじてはならない


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)最近、一部の学法グループは学法の時にどれだけ読んだかを追求しているようです。

 スピードが速いと、考えることが追い付きません。一部の人は、句点でさえも止まらず、すらすら読んで、たくさん学法しているような気がしています。一方、遅く読むと全体の進行に影響を与える恐れがあると言って、ついつい速く読んでいます。原因について調べてみると、以下の二つのことが分かりました。一つはもうよく読んでいて慣れているから速くなってしまうこと、もう一つは毎回の学法は多く読んだ方がよいという考えがあります。これは単なるノルマの意識であり、大法の本の朗読について重視すべきだと思います。

 私は、ある小さなことにとても啓発されました。孫の学校で「唐詩朗読コンテスト」を行っているので、私は孫に教えてあげようと思いました。孫は「私はとっくに覚えているよ」とすらすら言い出しました。しかし、感情、表情、境地すべてが表われていませんでした。唐代の名人の詩を、こんなに軽々しく読んでしまう事はよくありません。師父の説法には一字にも重みがあり、字のうしろには佛道神がおられるので、丁重に読むべきだと思います。

 神韻芸術団の公演と新唐人テレビの司会者を見ていると、皆落ち着いて感情が豊かです。師父の本を読む時、中の内包の深さを理解し、師父自身が説法される時の語気なども味わうべきです。 

 最近の修煉体験文の『法を読む中で神聖さを体験する』の中に、「最近1人で学法し、読む時に、声がとても大きく、勇壮な感じがします。それは集団学法の時と同様にたくさんの人がいるかのように、真剣にはっきり読み、しかも速度もちょうどよく、気持ちがよかったのです。その時に天目でたくさんの衆生が聞いているのを見ました」と書いてありました。おそらく、朗々と読み上げること自体も邪悪を解体し、天地を正す作用があるのだと思います。

 もう一つは、集団学法の時に、ほぼ全部読み上げる方法で、最初から最後まで読むだけで、ひいてはノルマのために時間を延長する場合もあります。少しやり過ぎだと思います。学法の時間を交流の時間より多く取る事は問題ないのですが、交流をなくすことはよくないと思います。

 上記二つの問題についてまた共通の違った認識があります。それは読み間違えなければ、いくら速くても本の中の佛道神が啓示してくれることです。よく考えて見てください、速く読んでしまい、自分さえ内容を理解していなければ、他の人はもっとついてこられなくなります。このような状況で佛道神が啓示してくれると思いますか?

 集団学法の中で、各自の修煉についての問題、学法の中での新しい悟り、理解できないところ、なくそうとしてもなくせない執着、修煉体験などをよく交流すべきです。学法グループは浄土の世界であり、大法弟子の間で心を割って交流すれば、どんな問題も解くことができます。こうして初めて、「比べ合って学び、比べ合って修める」となり、互いに良いところを学んで共に向上することができます。

  2009年5月28日

(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/5/21/201344.html