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この世の中で師父にとって使う価値のあるものは果たしてあるだろうか

—「境地」を読んだ後の感想


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)『明慧週間』(第三十二期)に掲載された修煉体験の文章「境地」を読んだ後、非常に感激を受けました。一人の悪辣な警官が年配の修煉者にデマを飛ばし、あなたの師父は海外で別荘に住み、贅沢な生活を送っているなどの話をでっち上げました。この年配の修煉者は再三に、この話が本当かどうかを確かめてから、ほっとした表情で警官に、「私の師父が海外で苦労なさっていないと聞き、安心しました」と話しました。この年配の修煉者の、師父と大法に対する純粋で神聖な心を思うと、私は読むたびに涙が止まりません。


 邪悪が狂気じみた攻撃を繰り返していた時、すべての手段は最も悪らつなものでした。師父に対してでっちあげの話をして、大法に対してデマを飛ばし、修煉者たちの立場を変えようとしました。当時、私は大法の修煉に入ったばかりでした。しかし、こうしたデマやでっちあげの話に、私が動揺することは全くありませんでした。同修と交流する時に私は、「私にはもっと高い、深い法理は分かりませんが、少なくとも師父に対するでっちあげの話は信じません。人々は食べたり、飲んだり、遊んだり、贅沢したり、ゆったりとした生活を楽しんだりしますが、師父にとって使う価値のあるものは果たしてあるのでしょうか。

 今日まで、師父に遵って修煉を続けて十数年が経ちました。このことを思うたびにいつも涙が出てしまいます。師父が衆生のために無限に尽くされたことに対する恩返しをして、大法弟子としての一生懸命に修煉の道を歩み、衆生が知らないうちに犯してしまった大きな罪を背負うためには、精進するほか道はありません。

 2009年5月29日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/5/29/201806.html