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法を暗記し心を修めることについての体験(二)


文/カナダトロントの大法弟子

(明慧日本)法を暗唱することは法を学ぶ一つの形式であり、またそれ自体は精力を高度に集中させる思惟活動でもあり、私はいつも知らず知らずのうちに中断して、多くのことを連想し始めます。したがって法を暗記する中で、いつも法をもって自分と照らし合わせていると、いつの間にか心に向けて修め、内に向けて探すことがすでにその中に溶けこむようになりました。しばらく過ぎると、私は、以前取り除き難かった各々の執着、たとえば色欲心、闘争心などが薄くなりつつあり、少なくなったことに気づきました。

 例を挙げると、会社は毎年のように評定し採点していて、自己評価の比重は10%を占めていました。私はいつも自分が大法弟子だから、至る所で良く行い、何となく自分を高く評価するようにしました。しかし、70%の比重を占めている経済効果の点数はいつも平々凡々で、なかなか満足することができませんでした。法を暗記してから、私の心理状態が変わり、それらをとても薄く見るようになって、自分が以前その名分の争いに執着して、自分の不足を探したくなかったことを認識しました。今年の評定に対して、私はもう心を動かさず、自己評価の部分は自分の不足を探し当てて、そして不足な部分は「努力中」の項目を選び、名分を争う心はなくなりました。不思議なことに、経済効果の点数が今回は満点となったのです。

 法を暗記するにつれて、修煉する中でこのように突然変わることができたのは、師父の法を覚えてそれに照らして行ったことによるものだと思いました。修煉者は、心の中に大法を多く詰め込めば、執着の心は少なくなり、その物質身体にも変化が起きるのです。私が感じたのは、睡眠時間が少なくなり、煉功する中で最良の状態が多くなり、生きるのが楽になったのです。これまで毎朝正念を発してから必ずベッドに戻って睡眠を補充するようにしました。しかし、法を暗記するようになってから、連続数日にわたって横になっても眠れなくなり、12時間も勤務しなければならないため、5時間しか睡っていないのに無理だと、とても焦りました。これは、常人の愚かな所見に限定された枠の中で這い回ることに慣れていて、4日目になってやっと気づきました。執着心を取り除くと、その瓶が浮き上がってきたように、生きるのが楽になり、これは羅漢がどうしていつもにこにこしているかの理由です。

 真相を伝えて、衆生を救い済度することについて、絶えず法の中から正念を加えれば、邪悪はみな恐れるようになります。例えば、中国大陸の人に真相を伝えていると、中国共産党はいつも1〜2カ月足らずで私のドメイン名を封鎖してしまいます。封鎖されたら、私はすぐに新しく開くようにしていましたが、いつも何日か遅れてようやく運営することができました。法を暗記することによって、私はこのドメイン名を2カ月ほど使った時、心の中で、封鎖されないように気をつけなければならないと思いました。ところが3カ月、4カ月も過ぎて、5カ月になっても無事でした。私は、これは法の中から絶えず正念を加えた結果だとようやく分かりました。

 『転法輪』の第9講を暗記するのは、とても苦しかったです。一つは成功を急ぐ人心があったためで、もう一つは法の内包に対する理解が不十分だったからです。師父は『意念』の一節の中で、「煉功者が具体的に何かをする時は、彼の功能が働いているのです」、また「煉功者の場合は、意念が功能を支配して働かせます。一方、常人の場合は、意念が四肢や感覚器官を支配して働かせるのです」とおっしゃいました。

 私はこの段落の法理に対してずっと理解していませんでした。私は功能がなくて、その上、功能に対する理解が少なければ少ないほど良いと思っていました。したがってこれまで、それに関してなぜだと思ったことはありませんでした。繰り返し暗記できない時、自分は煉功者ですが、私は四肢と感覚器官で行なっているのではないか、どのように師父の法を理解しているのかと考え始めました。私は突然、正念を用いる事に関する師父の説法を思い出しました。

 師父は2003年に『大ニューヨーク地区法会での説法』の中で次のような教示がありました。

 「 皆さんが時に物事を考える時、ある習慣を形成しました。つまり、私は何かをしたい。このことをこのように行い、あのことをあのように行い、非常に周到で、とても行き届いていると自分が思うまで考えるのです。いざそれを行なう時になると、実際の情況は千変万化しており、かえってうまく行かなくなりました。(笑) 行き詰まったらまた考え直すのです。このように事を行なうのではありません。正念を使ってください。自分がこのように行なうべきだと思っているように行なえば良いのです。問題にぶつかったら、自然にどのように解決するかが分かってきます。正念が強ければ全てが順調になり、きっと良く行なうことができます」

 「どうして私はこのように皆さんに要求しているのでしょうか?とても受身的に見えるでしょう。そうでしょう。違います。あなたが修煉によってできたその一面は何でも知っており、どのように行なっても、どのようにこれらのことを行なっても良く行なうことができるからです。あなたに一つの考え方があれば十分です。どのように行なうべきかを知っていれば、そのように行なえば良いのです。実際行なう時にあなたの智慧は絶えず湧いてきます。その時あなたの修煉によってできたその一面があなたのこの空間の部分と溶け合い、繋がるようになるからです。それは神であり、できないことはありません。もちろん、たいしたことのないことをすぐに解決し、智慧がやってきます。それは全然違う状態です。それでもうまくいかない時、師父もあなたに智慧を与えるのです」

 繰り返し熟考した後に、私ははっと悟りました。私自身は見たところいかなる功能もありませんが、大法修煉ですから、私たちの修めてできた部分は師父が分け隔ててくれたのです。修めてできた部分は完全に神の状態で、できないことはないのです。あなたは正念さえあれば、修めてできた部分は神通力を発揮します。正念の強さによって、神通力の大きさも変わるのです。自分のこれまでの修煉の中で行なってきた事を振り返ってみると、以前はいつも自分の能力、知識、技術にかかっているのだと思っていましたが、実はそうではありませんでした。実際は、自分の正念によるもので、正念が強ければ強いほどうまく運び、奇跡が現れてきて、逆であれば、うまく運ぶことはなく、思い通りにやり遂げることはできません。もし、人心が強く執着心が多すぎて、正念がなく、法を深く学ばなければ、何かを行なう時に往々にして支障が出てきます。それはあなたの修めてできた部分は動くことなく、神が人の念を相手にすることはあり得ず、あなたが正念と神の念を持って初めて神通力を発揮することができるからです。常人の四肢、感覚器官、能力、手段、知識、技術なども必要ですが、そのすべてが常人社会の形式、状態と法理に合わせるためのもので、魔が誰かを殺す時、すべて何らかの事故を造らなければならず、たとえば外出して自動車にぶつかったり、階上から落ちたりするなどです。ですから、手段等は事をやり遂げる根本的な原因ではなく、その根本的な原因は正念であって、正念は法を学び、心を修めることからなるものです。

 (続く)

 (二〇〇九年カナダ法会の発表原稿)

 2009年5月29日

(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2009/5/20/201299.html