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師父こそ私の唯一の師父である


文/大法弟子

(明慧日本)5月12日の『正見週刊』に「1人の視覚障害者の大法弟子が経験した利益と情の試練」という文章が掲載されていました。文章の中で、同修は天目が開いて見えたほかの空間の生命を描写し、修煉に対する自分の認識と悟性について書いていました。全体的にとてもよく書かれていたと私は感じました。本当に同修たちに自信を与え、励ます作用があると感じましたが、ただ文中に「もとの道家の師父と大法師父」という言い方があり、少し不適切であると感じました。ここで同修を責めているのではなく、交流のためです。

 この文章では「このとき、私は無意識のうちに、道家の師父と大法の師父が空で話に花が咲いているのを目にしました。道家の師父は頭に道士の冠をかぶり、道士の着る服を着て、手はちり払いをもっていました。大法の師父はスーツを着ていました。2人の師父は非常に遠慮していて、調和のとれた雰囲気で話し合っていて、金色にきらきらと光っていました。道家の師父は『このことはあなたに気を使わせます』と言いました。大法の師父は『これは当たりまえのことです。安心してください。いつでも見に来てよいです』 『あなたに頼んで心配することはない、私のこの弟子は得がたいものです。この弟子は恩があれば、必ず返します!』 2人の師父は引継ぎが終わると、道家の師父はゆっくりと姿を消しました。大法の師父は空から地面におり、深い誠意をこめて、『あなたはできるところまで頑張ってください!』とおっしゃいました」

 ここで同修が提言した「2人の師父」という言い方に、私はとても驚き、とても不快に感じました。修煉での「不二法門」とはどれほど厳粛で、修煉者はこの問題において終始少しのずれもあってはいけないのに、どうして好きなように本来の「師父」を師父と呼べますか? また彼はあなたの師父ですか? あなたのどの世での師父でしょうか? あなたの生命の中にはどれほどの師父がいたでしょうか? これらの「師父」は尊師の前ではただの普通の衆生であり、彼とあなたはただ異なる次元で師と徒の縁を結んだだけです(「あの世での師父」と呼んでもよいのです)。しかし、絶対に大法の師父と並べて言ってはいけません。これは師父に対する不敬です。

  師父は法を正される中で、宇宙大穹全体と大穹内の各層の数え切れない衆生を救われました。師父は全宇宙の生命の「師父」とも言えます。なぜなら、師父がいらっしゃらなければ、新しい宇宙のすべては存在せず、旧宇宙のいかなる生命も未来に入ることができないからです。

 師父は旧宇宙とすべての衆生を救う根本です。そうであれば、1人の「旧宇宙の生命(たとえかつてあなたの師父であっても)と偉大なる尊師を並べて、同じように「師父」と称することができるでしょうか? これは師父に対する不敬であるだけでなく、実際は「不二法門」に対する認識がはっきりしていないのです。内心から真に、師父を堅く信じ、大法を堅く信じていないのです。私が思うには、今日まで修煉してきて、法理上成熟したすべての大法弟子はみな、「師父を堅く信じ、大法を堅く信じる」からこそ、やっと衆生を救い済度するという偉大な使命を全うし、師父について「家に帰る」ことができる、とはっきり認識できています。これこそ新しい宇宙が永遠に壊滅しない保証です。これについては、必ずはっきりさせなければなりません。

 もちろん、天目で過去の世での「師父」、あるいはどの層で「両親」に会った時、理性的になって、彼らを尊敬してもいいのです。しかし、絶対に彼らに邪魔されてはいけません。「いかなる佛、いかなる道、いかなる神、いかなる魔に対しても、心が動じることがなければ、必ず成功するに違いありません」(『転法輪』) 考えて見てください。もし慈悲なる師父がいらっしゃらなければ、旧宇宙のすべての生命に未来があるでしょうか? 彼らがどの世、どの層で師父であったとしても、今日大法弟子が修煉する中、慈悲で偉大なる師父の前で、私たちに対して「ああだ、こうだ」と議論したら、それは邪魔だと思います。大法弟子にとって、このとき、さらに師父を堅く信じ、大法を堅く信じ、それらに邪魔されてはいけません。これこそ、新しい宇宙の偉大なる神と称するに値します。私はこの問題は非常に厳粛であると思います。

 4月21日の『正見週刊』には「長い旅路は今生のため」という、非常によく書かれた文章が載っていました(作者は上述文章と同一作者です)。文中、同修は体から抜け出し、ほかの空間に行ったところ、1人の年配の道が彼に「今あなたをつれて、法器を見にいきます」と言いました。彼らは風景の美しい、山の洞窟に行きました。道は彼に、世に下る前に彼が使っていた、エネルギーが非常に強い「大きな宝のリング」があると教えてくれました。文章ではこう書いていました。「私が宝のリングを持ち上げた時、かつて使ったことのある感覚が心の中に湧き上がって来ました。私は習慣的に宝のリングを一回揺すってみましたが、私の後ろに立っていた導士が宝のリングの強大なエネルギーによって、数メートル後ろに下がるのが見えました。私は『私の法器に間違いない』と思いましたが、もって行こうという考えがなく、依然として本来のところへ戻しました。そして、向きを変え、年配の道士に向かって『あとでまたお話しましょう』と言いました。年配の道士は前へ2歩歩いて、『今あなたをつれてあなたの金の体を見に行きましょう。あなたの金の体はまだしっかりとしています。行ってみましょう』と告げました。その時、私は突然、法輪大法を思い出し、『いいです。見に行きません。私は帰るべきです』と言いました」

 私はこの一段落を見た時、同修の悟性と大法に対する確固たる心に驚嘆しました。彼は「自分」のものさえもらわず、大法の中に「何でもある」と深く知っていました。私はこの一段落はきわめてすばらしいと感じました。そうです! たとえ、すべての大法弟子が異なる次元でかつて残した数多くの生命の輝きは、旧宇宙の過去に属するものです。大法と師父に同化した限りなく美しい新しい宇宙と比べると、それらはすべて何ものでもないのです。

 以上はわずかな体験であり、適切でないところについては同修のご指摘を願います。

  2009年5月31日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/5/29/201816.html