日本明慧
■印刷版   

天上へのぼる階段(一)


文/カナダの西洋人の大法弟子

(明慧日本)尊敬なる師父、同修の皆様こんにちは。私は皆さんと一緒にいること、そして本日皆さんと一緒に法会に参加し、修煉体験を交流できることを、たいへん幸運かつ光栄に思います。

 私は3年前に大法を得ました。1人の新修煉者として私は時間の切迫感を強く感じました。もちろん、これは一つの執着心になるかもしれませんが、この緊迫感は私に一刻をも大切にさせ、いかなる時間も無駄に使わず、修煉のチャンスを失わないようにと励ます効果をもたらしました。それでも、私はいくつか貴重な時間や重大なチャンスを逃しました。しかし、私はそれらが比較的少なかったと思い、そして、それもこの境地での修煉形式の一つであると理解しました。

 師父は『ロサンゼルス市法会での説法』で、「確かに、皆さんは迷いの中で修煉しています。ですから、時には緩んでしまったり、妨害されるなどの状態が現れ、とても常人的になってしまう時さえあるのです。もちろん、これも修煉の過程の中での状態の現れです。このような状況でなければ、修煉ではなくなり、人間が修煉しているのではなく、神が修煉することになるのです。もちろん、神の修煉は存在しないことです」とおっしゃいました。

 私は時間の管理や三つのことを非常に重視し、そしてそれを持続してきたと思います。私は修煉のこと以外に時間の無駄使いが非常に少なく、いつも多忙で、若い時から真面目かつ勤勉な人と思われていたため、速いリズムで修煉環境に追いつき、そして溶け込むことができ、自分の役柄を努めました。

 私は幸いにも睡眠に執着しないタイプで、若い時、ベッドに行く唯一の理由は、翌朝早く目が醒めるからでした。やる事がとても多いのですから、睡眠は私にとって時間を無駄に使うことなのです。この考え方は、私にとってたいへん有利で、修煉して以来、起床に気がせき、必要があれば、いつも4、5時間しか寝ませんでした。毎日目が醒めると頭の中で考えることは学法です。朝は1日のうちで最も静かな時間ですし、頭もはっきりしている時間で、自分にとっては最高の学法時間なのです。私は多忙だからと言って学法時間を減らすこともありません。

 過去数年間で、私は修煉以来の変化をはっきり自覚しました。修煉し始めた時、目が醒めると喜んで大法を勉強しました。学法する時間がないと言って、困っている古い学習者たちを私は理解できません。私から見ると、大法を得た私たちは宇宙中で最も幸せ者です。私たちはどうして学法時間を作ることに最大限の力を尽くさないのでしょうか? 大法を学べることはなんと幸せでしょう! 煉功も同じです。毎日煉功しないということは全くでたらめなことだと思います。

 私は今も変わらず、毎日起床後に大法を学び、できるだけ毎日1〜2時間の煉功をします。これは自分の修煉と衆生を救うことに不可欠だと思うからです。自分の修煉をいつも調整して改善し、自分の進歩が緩慢しそうになる時、大法を書き写し、理解を深め、自分の修煉を一層高めます。

 『洪吟』の中に「修煉は階段を登るように」とあります。この例えは自分の修煉状態が進歩しているかどうかということが分かります。私の理解では私たちの生活は、もうこれ以上安逸になってはいけません。まだ安逸を貪っているなら、本当に階段を登っているのでしょうか? もしも私たちがとてもリラックスし、かつ心地よい状態にいれば、私たちの修煉はもう膠着(停滞)しているかもしれません。

 私は原則として、いかなる大法活動とプロジェクトも拒否してはいけないと考えます。もし現在、自分の受け持つ大法の活動とプロジェクトがかち合えば、どれが私に法を正す過程の中でさらに私の能力を生かせるかを選びます。師父は私たちがどれぐらいの時間で、どれぐらいのことができるかをご存知です。私たちの周辺のすべての出来事は、自分たちの修煉を向上させることです。もし、これらのチャンスを失い続け、自分はできないと思ったり、今やっていることに執着したり、自信も持てず、やる気が起きなかったりすれば、どうやって向上できるのでしょうか?

 (続く) 

 (2009年カナダ法会での発表原稿)

 2009年6月13日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/6/4/202229.html