■日本明慧 http://jp.minghui.org/2009/06/28/mh295352.html 



気ままな性格

(明慧日本)以前、ずっと自分が他人より素晴らしいと思っていました。社会で、玉のように純粋で気高い女の子だと思っていました。修煉し始めてから、やっと自分の汚い変異している観念と執着に気づき、自分が恐ろしい境地に落ちているとわかりました。しかし、慈悲なる師父がおられたからこそ、私を地獄から掬い出してくださいました。

 私は1980年代に生まれました。新聞などが80年代に生まれた人の悪性な行為を指摘するのを見ると、とてもかわいそうだと思いました。特に修煉し始めたあと、自分が他人と異なるという思いがさらに強くなりました。

 しかし、悟性がとても低く、法をしっかりと学んでいなかったので、最近になってやっとはたと悟りました。他人にある欠点は一つ残らず自分にもあったのです。

 初めて、自分がとてもだらしなく気ままで、無責任なことを発見しました。これまでのだらしない気ままな行為は今思い出すと、自分がものごとに責任を負わず、重視せず、気ままに振る舞っていたと気づきました。当時自分はとても真面目に考えて行動したつもりでしたが、実際は欠点ばかりでした。

 自分は、好きなだけボーイフレンドを作り、同居して別れ、気ままに勉強をし、試験と学校はどうでもよかったのです。仕事は責任感もなく、勝手に辞め、勝手に結婚し、結婚式をして、服装はだらしなく、他人のことを考えずに他人を指摘していました。

 自分のだらしなさは、同世代の常人が見ても、自己中心的で、わがままです。実際、これは私のため、我のための現れです。自己中心であるために、他人にまで気を配らず、同情しないで、勝手に自分の都合で行ないました。自分は本当に自分勝手だと思いました。限りある貴重な時間を浪費し、零落すればするほど悲しくなりました。

 私にはとても優秀な夫がいて、家のために夜も昼も働いています。しかし、私はちっとも楽しく感じません。なぜなら私と彼は休む時間が少なく、しっかりと法を学ぶことができないからです。

 修煉は厳粛なことです。自分を見ると自分がとてもわがままです。法を学びたいとき学び、気分が良くないときは法を学びません。状況が厳しい時は学法し、ゆるくなると気を抜き、毎朝煉功に参加することができません。真相を伝えるとき、緊迫感がなく、鈍感になる結果、真相を伝える効果は当然良くありません。真面目に真相資料を作らず、作りたいときに作り、時には安楽を求め、よくできたときに満足し、よくできてないときこの上なく辛く悲しくなり、このような悪循環になっていました。

 いい加減にやると、本当に責任を負うのは他人です。一時的に楽になれますが、本当に仕事をするのは他人です。私がわがままであるために、本来私が背負わなければならないことは他人が背負うことになってしまうのです。その一方、安楽心、私心、依存心がさらに強くなりました。今、私はこのわがままが引き起こしたさまざまな不幸や苦痛を受けています。このことが私が精進できない原因になっていると同時に夫(同修)を妨害しているのです。

 以前、いつも自分がまだ小さい、修煉してまだ2年経っていないことを言い訳にして厳粛に自分の執着心に対していませんでした。いつも自分が内へ向かって探すと言うのですが、探し出しても、取り除こうとしませんでした。環境が厳しくなると緊迫し、周りに動揺されて修煉しているのです。

 皆さん、くれぐれも私のようにならないでください。今、自分のようなわがままな行為を続ければ、将来果てのない苦痛と後悔の中でわがままが引き起こした業力を返済し、耐えなければならないと深く悟りました。

 私の唯一の願いは師父の真の弟子になり、正法の進展に追いつき、縁のある人を一人も残らず救うことです。

 間違っているところは、慈悲なる指摘をお願いします。

  2009年6月28日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/6/20/202982.html

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