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修煉体験:真の大法弟子になる

(明慧日本)最近修煉する中で、いろいろと感慨深いことがありました。特に第5回書面修煉体験交流会の文章を読んでから、自分と良くできている同修とのギャップに気づき、自分の問題点にも気づくようになりました。これまでに自分が良くできていない原因を探ってみると、最も根本的な原因にたどり着きました。それは、自分はまだ真に修煉する大法弟子でないことでした。

  なぜ、三つのことを行っているのに、あまり向上を感じないのでしょうか? ただ行うことと心を尽くして行うことは雲泥の差でした。三つのことを行う際にどのような心構えでいるのかは非常に重要なことです。本当に純粋な心構えで行なっているのかどうか、本当に内心から良く行いたいのかどうか、それとも自分が円満成就できるために行なっているのか、本当に師父に従って大法を実証しているのでしょうか。

  同修の言葉を引用するならば、それは「佛ごっこ」をしているようなものでした。私は自分の問題に気づきました。まるで旧勢力のように、自分の最も根本的な利益を維持して観念を変えようとせず、表面上は大法を助けていますが、内心ではただ他の人を変えることしか考えておらず、自分を放下しようとせず、法を円容しようとしていませんでした。時々自分の表面上の善はただ自分のイメージを守っているためであり、傷つけられるのを恐れていることこそが根本的なところでした。活動するときの動機と心構えが純粋ではなく、ひとたび自分の根本的な利益観念に触れたとき、大法を投げ捨てて、師父に従おうとしません。

  これは真に修める大法弟子の行うべきことでしょうか? 三つのことをするとき、えてして任務を遂行しているかのように、ひとたび終えたらすべてが終わったかのように、気が緩んでしまい、時間になったらそこに座って精進しているように発正念しているように見せて、実は頭の中はいろんなことを考えていました。自分が大法弟子であることを忘れ、どれほど神聖で厳粛なことをしているのかを忘れてしまいました。たくさんの同修は真相を伝えるとき心構えが純粋でないため、真相資料を配りながら、早く資料を配布し終えて常人の何かのことをしなければならないと考えていました。このような心構えが最も隙に乗じられやすいのです。

  私は今、何をするにしても法を最優先とすべきだと悟りました。大法にとって必要であれば、無条件に個人のすべてを放下しなければなりません(もちろん理性的な状態で)。法を円容し、師父がほしいものを円容するのです。個人の円満成就は取るに足りません! 個人の円満成就はよりよく法を実証し、衆生を救い済度するためです。これを除けば何も取るに足りないのです。今日において、このことが最も偉大で最も重要なことです。1人の生命がもし大法のために存在し、個人のすべてを放下できるのなら、それはどれほど殊勝で、どれほど偉大なことでしょうか?

  2009年7月1日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/6/24/203250.html