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「自分の名を求める心を探し当てた」という修煉体験談から体得したこと


文/海外の大法弟子

(明慧日本)6月17日に発表された「自分の名を求める心を探し当てた」という文章を読んで、私はとても共感を覚えました。

 移民として来た私は、以前は事務職をしていたのですが、ホワイトカラーからブルーカラー(肉体労働)になったので、きつい労働に不平の心が生じました。家庭の中で私だけが辛い仕事をしているのに、夫はいつものように私の奉仕を無視して彼の過去を自慢します。私はいつも夫に、私は完全に自分にとって苦手な仕事(今の肉体労働は以前の仕事とくらべて私のネックとなっている)を努力し、一家の生活を支えていることを認めてもらおうとします。しかし、夫はなかなか認めず、次第にこの話題が喧嘩の引き金になりました。それで非常につらかったです。これではいくら奉仕しても認めてもらえないと不平に思い、完全に常人レベルの考えの中に陥っていました。いつも自分の奉仕を、恩恵を与えた人に認めてもらいたいと思い、これこそ同修が言及した、名を追求する執着です。

 実は、学法がしっかりできていませんでした。そして、いつも師父の教えである宇宙の「正しい法理」を持って自分を律することができていなかったからです。私たちは真に常人の心を放下して、初めて師父に認められます。私のことについて言えば、たとえ夫が認めて、彼の親戚も誉めてくれ、私がいかに家族のために貢献しているとしても、自分が執着したままでは、かえってもっと執着が大きくなるかもしれません。これこそ師父を焦らせることです。

 二言三言で、同修と共感できればと思います。

 2009年7月6日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/6/18/202934.html