日本明慧
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心を修めながら精進し、さらに精進し続ける 


文/中国黒龍江省の大法弟子

(明慧日本)私は嬉しいことに1995年11月に修煉を始めることが出来ました。今年で74歳になります。この長かったようで短い修煉期間を思い返せば、精進していた時期もあれば、怠けた時期もありました。いずれにせよ師父の済度とご加護がありましたから、今日まで歩むことができたのです。

一、師父が私のために魔を取り除き、修煉の道に導いて下さった

私は初めて『転法輪』を手にして師父の写真を拝見した時、とても親しみを感じました。師父はお若く、本に何が書いてあるのだろうかと、興味津々でした。親戚の家に遊びに来ていたため何もすることがなく、3日間で一気に読み通しました。そこで師父の知識は豊富で何でも知っておられると感じ、人々を昇華させ善い人になるよう教え、どのように修煉するかも教えてくださっていると感じました。そして、私を励まし、感動させられたことを覚えています。

私が修煉を始めようとした途端に問題が起きました。身体が重病に罹ったかのように辛く破裂しそうな感じで、立つのも辛い、座るのも辛い、寝ていても辛い、とにかく身体が辛いのです。私は目を閉じたとき2回ほど見えたのですが、とても大きな魔が私を憎むように睨みつけており、その魔が睨みに力を入れれば私の身体がますます辛くなり、その辛さに我慢できない私はベッドの上でずっとのたうち回っていました。

耐え切れなくなった私は『転法輪』を手にして、師父の写真を見ながら「これは何事でしょうか?」(その当時はなにも分からなかった)と師父にお尋ねしました。言葉を言い終わらないうちに、私の左腕から「サー」と稲妻のように何かが出ていったのを感じました。その感覚はあまりにも鮮明で、今なお記憶に生々しく残っています。その直後に身体が楽になり何ごともなかったかのようで、真に奇跡が起きたのです。

私が修煉できるように、師父が魔を取り除いてくださり、身体を浄化してくださったのを悟りました。しかも師父がおっしゃいましたように「本当の修煉は、わたしの法身の守りがなければ、とてもできないことです」(『転法輪』)ということも体験出来、そこから堅実に修煉の道を歩み始めたのです。

二、心性を高め、利益の心を取り除く

初めから話さなければなりませんが、私には70歳過ぎの小姑がいました。10年前に夫が亡くなり、子供がいないので小姑は再婚しました。今年の2月に小姑が亡くなった際に遺産について遺言書にこのように書いてありました。現金6万5千元は葬式の費用を差し引いた後、今の夫に3分の1、2人の甥に(私の息子)それぞれ3分の1とする、持ち家(10万元相当)を売り払い、売った金は同じく3人に3分の1を分配するという遺言だったのです。

しかし、小姑が再婚した相手は局長クラスの幹部退職者でした。毎月の年金支給額は3千元余りあり、小姑との生活費として700元しか使わず、残りを自分の子供に与えていました。小姑の持ち家は前の夫と購入したもので、確かに小姑の名義になっていますが、今の夫と何ら関わりはありません。そこで矛盾が生じたわけです。

現在の夫は遺言書を認めようとせず、自分こそすべての遺産の相続人であり誰にも財産を分け与えないと主張し始めたのです。こちらの親戚がこの話を聞いて黙っていられなくなり、遺言書の通りにするのが筋であると言い、その遺言書は法律でも認められていると言うのです。私の考え方は親戚の皆さんと同じく(私の息子だから)、私の人心が表れ始め、心が定まらず、争いに参戦はしていませんが、心情は不満でした。心の中では何もいらないから是か非かはっきりとさせるべきで、相手の汚いところを皆に見てもおうではないかと思い始めたのです。

この考え方は正真正銘の常人の利益に対する執着心です。私は修煉者であり、大法の法理に基づいて行い、心性を高めなければならず、わずかな利益のために自分の修煉を台無しにしてはならないと思うようになり、思わず『転法輪』を開いたところ、なんと「失と得」の節ではありませんか? 私は着実に意味を理解できるようにゆっくりと読み始めました。一言一言が私の今の心を指しているではありませんか? 私はこの「失と得」の節を繰り返し学法しながら、理解を深めていきました。

やっと悟ったのです! 私は修煉者だ! 高い基準で更なる高い基準で自分を律しなければならず、師父がおっしゃいましたように「常人と同じように争ったり闘ったりすると、あなたはただの常人になります。もし相手よりも激しく争ったり戦ったりすれば、あなたは相手の常人にも及びません」(『転法輪』) 師父の法は私を目醒めさせ、利益に対する執着心をきれいに洗い落としてくださいました。法理をより深く理解したことによって心性を高めることが出来、私の心は軽やかになり、利益に対する執着心を放下することが出来ました。子供に「失と得」の道理を説明し、道理を理解した子供は相手との争いを止め、自然の流れに任せることにしたのです。

三、正念を強め、邪悪の妨害を取り除く

修煉の道では何時も正念を保たなければならず、ちょっとの隙を邪悪に乗じられ迫害の対象になります。師父はおっしゃいました。「旧勢力の全体が消滅されることと、これから消滅される最後の全ての要素は旧勢力の黒い手が極めて大きな罪悪を犯したことと関係しています。これらの黒い手は全ての大法弟子が修煉し始めたときから現在までのあらゆる出来事と、大法弟子の個人修煉の中で現れてきた全てのことを妨害することに参与し、あらゆる隙に付け入りました」(『正念で黒い手を根絶する』)

2007年11月のある日、同修と一緒に真相資料を配りに行き、歩きながら一軒一軒に配り、気がつくとかなり遠い所まで来てしまいました。ある場所で同修たちと正念を発することを約束していましたので、その時間に間に合うかどうか心配になり、常人のように仕事をする心が表れ始め、落ち着きがなく人に見られては都合が悪いと思ったのです。あるビルに登り配り始めようとした時、ビルの下にいた同修は「先に行くね」と声をかけ、人が来たという暗示であることが直ぐ分かりました。驚いた私は資料を袋に収め3階から急いで降りました。恐怖心が現われていたため行動は不自然でそわそわしていました。1階の階段は氷がはっていたため私は不注意で足元が滑り、転んで腰を階段の角にぶつけたのです。一瞬目がくらみ全身に痛みが走り、起き上がれないのです。

善し悪しは一念によるものと思い、私は大法弟子であり、ここに倒れたままではいけない、私への妨害を許さない、早く起きなければと思いました。そして、邪悪の妨害を取り除く正念を発し、力を絞って起き上がり建物の外まで歩いたのです。確かに腕に赤い布をつけた巡回の男性がいて、私を見ていたのです。私は全身の痛みに耐えながら何ごともなかったかのように装い、正念を発していました。巡回の男性は向きを変え去って行きました。

同修と残った真相資料を配り続けることにしました。心の中では私が行なっている正法は如何なるものの妨害も許さない、例え私に隙があったとしてもそれは私たちの師父のご加護の下で自分を正すことだと思いました。このように同修と残っていた真相資料を配り終えたのです。

このことが私に与えた教訓は大きく、何時でも如何なる状況でも正念を保たなければなりません。師父が「大法弟子は矛盾に出会ったとき、すべて内に向けて探さなければなりません」とよくおっしゃいました。私は自分の考えの根源から探してみました。自分には正念が足りず、早く仕事を終わらせ任務を果たしたいという心が見つかりました。それが邪悪に乗じられ衆生済度を妨害されたのです。

師父はおっしゃいました。「修煉の中で、皆さんは良いことに出遭っても、良くないことに出遭っても、すべて良いことです」(『シカゴ法会』) 私の不注意で転んでしまって10日間ほど辛い思いをしたのですが、しかし、邪悪の妨害に打ち勝ったのです。この辛かった10日間師父のご加護もあり、学法、「三つ」の行いを休んだことはなかったのです。若しこの災難が常人にかかれば、考えてみてください、70歳過ぎの老人がどうなっていたか想像できます。このことについて私はこのように悟りました。転んで死んだのは「業力」なので、これはよいことではありませんか? 邪悪は大法弟子の衆生済度を妨害したことにより更なる罪を犯したのです。

この12〜13年の修煉の道を振り返ってみますと、師父について正法の道を歩み通すことが出来ましたが、個人の修煉及び正法についてはあまり精進していませんでした。「三つ」の行いは続けて行なってきましたが、誠実ではなく貴重な時間を浪費したのです。そして、多くの執着心が取り除かれておらず、虚栄心、安逸心、名利心、恐怖心等がありました。特に恐怖心が顕著に現われていました。面と向かって真相を伝えるとき相手が受け入れてくれないのではないか、通報されるのではないかという恐怖心があったため、面と向かって真相を伝えることを阻まれて出来なかったのです。

私はこれらの執着心を取り除き、これからは同修に見習い、師父のご加護を得て人々に面と向かって真相を伝え衆生済度します。師父がおっしゃいましたように「最後になればなるほど、法をさらによく勉強し、正念を充分に持たなければなりません」(『カナダ法会へ』) ですから、自分に対し厳しくしなければなりません。

少しばかりの悟りであり、法に合致していないところがあれば、慈悲を持って指摘してください。

2009年7月12日


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/6/27/203510.html