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上海:警官は楊曼曄さん宅のドアをこじ開けて不法に連行

(明慧日本)2009年6月6日午前、上海の中共の警官ら10数人は法輪功修煉者・楊曼曄さん宅のドアをこじ開けて不法に侵入し、楊さんを強制連行し普陀区留置場に拘留している。この度の連行に参加したのは警察普陀区支署の警官、610弁公室の役人、甘泉居住区委員会のメンバー、甘泉派出所の警官である。

楊さんは普陀区双山路の住民であり、2000年2月普陀区内で真相資料を配布していたところ、中共の警官らに連行され、9カ月間不法に普陀区留置場に拘束された後、不法な判決を受け4年の刑を科せられたが、刑期満了時に刑務所が勝手に9カ月延長し、松江女子労働教養所で計4年9カ月の無償強制労働を強いられた。迫害によって体力を消耗し、歩行中に二度も倒れ膝を複雑骨折し、手術を受けた。このように弱った体でも迫害を続け、トイレに行かせない、入浴させない、独房に閉じ込める、灌食する、縛り上げるなどの迫害を受けた。

また、35歳の楊さんは電撃されたり、強制労働させられたり、3平方メートルの広さの小部屋に2カ月以上閉じ込められた。2001年1月に楊さんは法輪功修煉者に経文を渡したことが知られ、4大隊長の仇敏頴(現第5大隊管轄長) 、警官の黄慧、舒萍らは高圧スタンガンで楊さんを電撃した。楊さんは迫害を制止しようとして、大法の経文を暗唱し始めたため、3人の警官は狂ったように楊さんの口や顔をめがけて長時間にわたり電撃した。警官は電池を取り換えて電撃を続けたので楊さんの顔面の皮膚は焦げ付き、水ぶくれが出来た。この迫害を指示したのは4大隊管轄区長の悪辣な警官の侯瑞勤である。

独房に閉じ込められた楊さんは警官らに体罰として直立不動の姿勢で立たされ、それに屈服しなかった楊さんは依然として大法の経文を暗唱し続けた。そして、警官は楊さんの両手を背中に回し窓の柵に手錠で固定した後、ラジカセの音量を最大にしていわゆる法輪功学修煉者に対する規定を無理矢理に聞かせた。楊さんは窓に固定されたままで寝るしかなかった。それから警官は受刑者に指図して楊さんに暴行を働いた。受刑者は公然と隊長の命令であると話していた。楊さんが違法行為を隊長の仇に正したとき、仇は自分の指図であることを知られないように受刑者に謝らせ、一方では受刑者に褒美として減刑した。

このような人騙しは刑務所の中で日常茶飯事のように起きていた。あるとき楊さんは経文を暗唱していたとき、受刑者に暴行され、この違法行為を警官の舒にいうと、舒は「あなたは何をしていたのか?」と言われた。その言葉の裏には経文を暗唱していたのだから殴られて当然だということを意味していた。後日、楊さんに暴行していた受刑者は減刑の褒美をもらい釈放された。

楊さんは迫害されでも妥協しなかったため、警官が自分たちははやることはやったと言う事実を作るため、刑務所の中で楊さんを批判する大会を開き、受刑者に強制して楊さんを攻撃させた。一部の受刑者は目先の利益に誘惑され良心に反し事実でないことを口にしたが、一部の賢い受刑者は真相を理解し、自分に素晴らしい未来を残し、悪辣な警官に協力しなかった。楊さんは迫害の違法性を積極的に訴えて絶食したため、独房に入れられたり、灌食されたり、酷暑の中16〜17時間太陽に照らされながら立たされたり、長時間の強制労働を強いられたりして体に極度なダメージを受け、膝が体を支えきれなくなり脱臼し、膝から地面に落ち複雑骨折し、2回の手術を受けて十数センチの傷口が残った。

楊さんは同修に経文を渡していたことが嫉まれ、刑務所長の樊天敏、刑務担当の劉国強らは権限が無いにも関わらず、楊さんに対し「 刑務所の秩序を破壊した」と言う罪で勝手に9カ月の刑期を延長された。

楊さんは出所した半年後、真相資料を配布したとき再び強制連行され、刑務所に1年半にわたり収容された。このときは法輪功に対する迫害が最も邪悪な第2管轄区に入れられ、法輪功の迫害専属要員の王明(警官番号:3156089)、中隊長の徐宏(警官番号:3156087)らが楊さんの両手を背中に回し手錠で窓の柵に固定していた。当時は真夏だったが楊さんは5階の密閉された部屋に閉じ込められていた。前回の迫害で受けた体のダメージは回復されていないうえ、再び迫害されたことで体は悲鳴をあげ39.6度の熱が続き、それでも刑務所側は楊さんを釈放しなかった。

2009年7月17日


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/6/16/202817.html