日本明慧
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無私に内に向けて探し、間隔を取り除いて全体を円融する(一)

(明慧日本)最近2年ほど、1人の同修とよく争っていました。個人観念の強い私は自己主張を優先し、後天の観念と短気などの多くの執着心がありました。そのため、他人の意見を受け入れず、人に寛容な心をもたず、大善大忍になることは無理だと思ってきました。去年、師父の誕生日に、ある同修に交流文章を書くことを勧められ、書けるものがないと思っていたら、同修から、争っている時に内に向けて探す体験を発表したらと言われました。

  文章を書く中で、自分の執着していることを探すと、邪悪な物質は私の思想を邪魔して、私の執着を強化させ、悪い物質に影響されましたが、良し悪しを分別して正念で内から見つけた悪い影響を追い払いました。そして、交流文章を完成し、昔からある執着心と後天の観念を掘り出すと同時に、新しい法理も分かりました。人心を徹底的に捨て去るために、これからは大法の法理に基づいて修煉を貫きたいと思います。

  そう思うと、心身が軽く爽やかに感じました。同時に、以前同修との間にあった軋轢も忘れました。今、分かったことは、軋轢を取り除いて新しい法理が分かる時は、すなわち次元が上がる時です。逆にまだあれこれの執念を持ち続けると、次元が元に落ちたと同じことになるのではないでしょうか?

 そして、日頃の一つの考えや一念、一言一行に細心に注意し、元の木阿弥にならないように小さな執着も注意してすぐ正念できれいに取り除きます。師父のお教えに、人間の体はまるで小宇宙で、その中で暮らす生物を全部、宇宙大法に同化させなければならず、不正な要素を見つけ次第、取り除くべきだとあります。内に向けて探す時に、心の容量が広がるにつれて忍耐力も上がり、心の穏やかさを保つことができます。困難な時や誤解に遭った時に法理に従って内を探せば、往々にして温厚に対応できます。『転法輪』にあるように、「平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです」と師父は教えられました。

  たくさんの矛盾を乗り越えて内を向けて修める中で、心性が上がり次元が向上した時、以前の矛盾は自分の向上を助けるためだったと、あらためて認識しました。自分が悟れないのに、往々にして相手のせいにして外に目を向けていました。そうすると、ぶつかり合いを引き起こして悟らせようと、慈悲なる師父は弟子のために段取りしてくださいました。『精進要旨』の「再認識」にあるように、「皆さん、ご存知ですか? あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させることで、それを取り去っているのです。皆さんの向上こそ、この上なく重要だからです」と師父は言われました。

  また、師父は良い事でも悪いことでも、どちらも良いことだと言われたこともあります。せっかく出遭った矛盾を利用すれば、私たちはそれを良いことにしたのと同じではありかせんか? 法理から自分を向上させてくださった師父の救い済度に深く感謝します。同修にも感謝します。

  矛盾から悪い物質を追い出した後、自分と争った同修のことを哀れに思いました。彼女に思いやりの気持ちを表したいと思いましたが、心の中で行きたくない思いが生じ、人への心配りが必要だと分かってはいるものの、行動することができませんでした。

  躊躇して20日後、彼女の家を訪ねて行きました。2人が会話を交わす中で、互いのことに気遣って再び争いを起こすことを恐れていました。自分の中では、争わなければ何でも喋らせてあげる、修煉は個人の問題だから、向こうから何を言ってもにこにこして聞けばよい、といろいろ考えました。それは、相手に対して不十分な気遣いで、汚い共産党文化の自己隠蔽思想の中に潜んでいる警戒心も働きました。

  その後、家に戻り、内に向けて探しましたが、なぜ自分にまだあんなに人の物が多く存在しているのか? どうして同修のことに責任を持とうとしないのか? 恨みはもう無くしたし、同修のことに対して熱心なのに、彼女の顔を見るたび、何か壁が隔たっているのを感じました。いったい何なのだろうか? どうやって壁を無くせばよいのか? いろいろなことが分かりませんでした。きっと心の底のどこかに執着心がまだ根付いていて、まだ完全に取り除いていない部分があったのです。

  内の奥を一層一層と掘り込んでいくと、情の魔という邪悪の影響があったことを見つけました。人の情を指図して私にああしたくない、こうしたくないと操った上で、思想の中の怨みという物質にも影響されていました。情の魔の影響で同修の不足を目にしても、彼女を指摘しないままに利己的に自分を守っていました。しかし、彼女の不足を目にすることが多いので、どうしていいかと困りました。そんな自分に人の情を取り除くことを悟らせるため、相手を傷付けることを恐れ、自分が傷付けられることを恐れ、他人事と思いがちな党文化思想などが表に暴露されました。それらの心は旧宇宙の理屈に基づき「私」というものに縛り付けられていました。大慈大悲までの高いレベルになろうと思いながらも、心底に根付いた悪い物質を取り除かない限り、とうてい不可能でしょう! 「とにかく人間社会のすべてのことが情から出ています。この情を断ち切らなければ、修煉することはできません。情から抜け出すことができれば、誰もあなたを動揺させることができず、常人の心があなたを動かすことは不可能となります。それに取って代わるものは慈悲の心であり、より高尚なものです」(『転法輪』)

  いっそう深く「私」の根源を探っていけば、突然同修としゃべりたくなります。1人の女性同修とのかつての軋轢によって、ずっと存在する2人の間隔を無くしたいし、この間隔で形成された強い執着を捨てたいのです。しかし、旧勢力を否定すると繰り返し言っても、心で思うことと実際の行動は邪悪の方に向かっています。明らかに、取り除かなければならない執着心がありますが、一旦実行しようと決意したとき、思想の中のある物質に引っ張られ、本意に背くことをしてしまいました。同時に、乱れた考えが起きて、「彼女が私の言うことを聞いてくれるのか? 私のことを受け入れるのか?」と疑心暗鬼になりました。

  さらに、同修と何かが起きるとまで想像しました。かといって、「また邪悪の妨害なのだろうか? 邪悪は間隔を取り除かれることを恐れている。消滅されることを恐れている」と戒めて、今回は絶対に最も純浄な心で同修と交流したいという正気が戻ってきました。すぐに気を取り直して正座をし、妨害を追い払ったり自らの空間場をきれいにしたりして、闘争を引き起こす怨みや不平をもたらす物質を徹底的に消滅するよう正念を30分間発しました。

  同修の家を訪れたら、彼女は暖かく接してくれました。自分の心では、「今度にしようか。彼女から言ってくるはずなのに。まあ、ほかの話題にしようか。もうすぐ4時だ、もう少ししたら帰ろう」と、いろいろと心で呟いていたら、雨が突然降りだし、まるで帰らせないかのようでした。慈悲なる師父は彼女と話せる環境を作ってくださいました。内に向けて原因を探ると、まだ以前の感情を抱いて彼女のことを評価し、たくさんの執着心が見つかりました。自分を高く挙げる中、進歩しない同修を見下げたりして、虚栄心と自負心の混じった常人のように偉そうに振る舞いました。常人の偉そうな振る舞いは良いものとでも思っているのでしょうか、と師父の弟子を悟らせる一言があったことを思い出しました。私は正々堂々とした正法時期の大法弟子として、神の心境になり、同修と交流すべきだと自覚しました!

 (続く)

  2009年7月20日


(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/5/9/200487.html