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同修の過ちと不足に対処することについて


文/吉林省の大法弟子

(明慧日本) 最近、同修の甲さんが病魔に命を奪われ、現地の同修の中にとても大きい反響と論争を引き起こしました。甲さんは地区の協調人として、法を実証する面で尽力しました。何回か連行されて迫害を受けたことがありますが、学法が不足しており、その上色魔に妨害され、全体的に大きな損失をもたらし、隔てられました。最後に、一歩一歩深みに嵌まってしまいました。

 甲さんの事があってから、一部の同修は正念を持って対処し、悔しいと思いながらも、その事から教訓を得、同時に事件が大法にもたらした損失を圓容しようとしています。一方、一部の同修は怨恨の心が生じて、あちこちで議論し(傍に家族や常人がいるかどうかも気にせず)、不平に思いました。原則として甲さんの行為と過ちを私たちは認めません。しかし怨恨を持ったり、常人への影響をも考えずに行動しては人を救うことにはなりません。

 師父は、「大法弟子にもしこの状態が現れ、心の中でこれらのことを不平に思っている時、あなたの心はつまり常人の中にあります。」(『北米第一回法会での説法』一九九八年三月二九日、三〇日)と教えておられます。私たちは不平に思っている時に、善を修める事と、内に向かって探すことを忘れてしまいます。法の中で師父はいつも自分をしっかりと修めてくださいと教えられているので、いかなる人と事に対しても我々の修煉の要素があり、その中には我々の心性と境地も現れるのではないでしょうか?

  大法弟子として我々は衆生を済度し、自分の修煉のためのみならず、我々の言動は全体に対して責任があり、大法に対しても責任があります。我々は人為的に混乱を作り、マイナス部分を強化してはいけませんので、我々の全体を強化し、全体の場に圓容し、そして漏れがないようにしなければなりません。このことで、我々はいかなることをする時にも、真に全体に対してプラスになるかどうか、衆生を済度するのに有利かどうかを必ず考えましょう。過ちを犯した学習者は命が亡くなり、これはすでに損失なので、もし我々が本当に皆と一緒にしっかりやろう、圓容していこうと思うならば、自分をしっかり修めることを忘れはしないし、自分が人を救うという使命を忘れないので自分の情緒を放任することはしないはずです。

 同修の過ちおよび不足に対してやトラブルに対しても、全体に協力することで正法弟子の姿勢を貫きましょう。それは寛容、慈悲、善心と堅忍であり、最強の正念です!

  個人的な認識であり、不足のあるところはご指摘ください。

  2009年7月23日


(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/7/15/204542.html