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新しい修煉者:深く自分を探る


文/暁港

(明慧日本)初めて師父の『転法輪』を読んだ時、これは自分が長年ずっと探していた人生の答えなのだと分かりました。しかし、真に修煉してから、迷いの中で悟りながら修煉することがいかに難しいことかをつくづく感じました。先日、同修と交流して深い感動を受け、願望と感覚に頼って修煉してはいけないことを感じました。 

 師父は『転法輪』の中で「人間の感覚はまったく頼りにならないものなので、感覚に頼って修煉するわけにはいきません」とおっしゃいました。以前、自分はどこにいても、自我の感覚が優れていて、自分は比較的頭がよいと思い込んでいました。修煉しているから人心を表そうとしないだけですが、腹では他人を軽視し、自分は大物だとうぬぼれていました。今日に至って、自分の欠点が見つかりました。これは全部修めて捨て去るべき人心です。

 もっとおかしいのは、学法をする度に「根基がよい人」という言葉が出てくると、自分の根基はよい部類に属すると思いこみ、得意になりました。同修の批判と忠告は振り向いてみるに値しないと思いました。修煉の過程で、自分の強烈な個性が残らず全部暴かれました。師父は私が個性を顕示するように按排されたのではなく、顕示しようとする心を捨て去り、無私無我の正覚を修めるべきです。しかし、私はこれらの状態と遠く離れていました。

 またある時、お菓子を買う際に、タイミングを見てお菓子屋で働いている妊婦に真相を話しました。私は妊婦に「子供をよく育ててください。お子さんの福を祈ります。『真善忍はすばらしい』と念ずれば、あなたと子供は平穏無事になります」と告げると、彼女は嬉しくなり、私に感謝の意を表しました。

 私は帰ってからしばらくは嬉しくてたまらず、同時に二つの生命を救った自分は良くできていると思いました。当時は気付きませんでしたが、実は歓喜心が生じたのです。この心は同修と交流してから気付きました。当時、同修は私に「人を救った後、歓喜心がありますか?」と聞きました。帰ってから、人を救うのは全部師父の行いで、師父の慈悲なる済度なのだと分かりました。師父の加持がなければ、自分はまだ何ができるでしょうか。自分にそれほどの威徳があるのでしょうか?

 私が修煉を始めたのは遅く、まだ1年に過ぎません。師父は私に「補習」をするよう促しておられることを深く感じました。同修はどんどん師父の大法書籍、経文及び各地での説法と『明慧週刊』などを私に伝えてくれ、私が良く学法し、よりよく修煉し、三つのことを行うようにしてくれました。自分が良く行っていない時でも、時々刻々、師父の慈悲なる済度を感じます。だから、私は師父の肖像を見る度に、常に涙が出てきます。

 つまり私は、同修と交流して教えられ、自分を探ってみることができるようになりました。

  2009年7月24日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/7/22/205064.html