日本明慧
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「自己保護」に対する少しの体得


文/米国大法弟子

(明慧日本)以前大法を学ぶ時、いつも「救われる者」は常人だという考えをもっていましたが、突然私も救われる者の中の1人だと気づきました。宇宙の中の旧勢力は淘汰を選び、修煉者は救われることを選びました。私は難関を突破する時、素直に師父が差し伸べられた手を掴んで這い上がるのではなく、いつも水の中で必死に足掻きながらあれこれ文句と不平をこぼしていました。難関がやってきたら、何より優先に考えるのは自己保護なのです。

  私はこの難関をどう認識するのか、私の心はどのように動じたか、修煉者として大法の要求に沿ってどうすべきかなどを、なかなか第一に考えていませんでした。例を挙げると、夫が突然失業した時、私がまず思いついたのは銀行の貯金はどれほどあるのか、失業保険金をもらえば家計がどれぐらい助かるのか、まだ足りなければ私がアルバイトをする必要があるのか、などです。難関を乗り越える段取りをして落ち着いてから、ようやく初めて自分の修煉にどんな問題があるのかを考えます。この時の「内に向けて探す」ことは難関を突破するための私的な目的が混じっています。

  難関を突破するのは修煉の向上を目指すためなので、自分の思いついた「対策」では難関を乗り越えられるはずがないのではありませんか? 多く法を学んで、師父の要求、法の要求に沿ってやったことで、初めて向上できるのではありませんか?

  旧宇宙の生命は私(し)のためのもので、いったん宇宙に問題が起こったら旧宇宙の中の生命は自分の身を救うのが本能的な反応です。しかし、自分の身を救う行為は滅亡を加速させました。この行為は自分が大切に思うものを残すための行動だからです。難関を突破する時の私の反応はこれと似ているのではありませんか? 不平不満があるのは、自分が執着しているものをなかなか切り捨てられないための足掻きではありませんか? 難関を突破する時、気持ちが良くて快適なことはあり得ませんが、それは師父が私をきれいに洗おうとされる時、私が必ず耐えなければならないほんの少しの苦痛に過ぎないのです。

  これを悟った瞬間、法の中に溶け込む時の落ち着き、快適さと幸福を感じました。昔から師父の偉大さと慈悲を知っていても、何か隔たりがあるようで実感したことがありませんでしたが、今は紛れもなく仏光に照らされている感じがして、師父が私達を救い済度される心を実に感じました。

  2009年7月27日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/5/4/200172.html