日本明慧
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中止された活動について、内に向かって探す


文/海外の大法弟子

(明慧日本)地元の同修が準備した活動が中止されたことを、私は意外に思いませんでした。環境が複雑なので、少し重苦しいと思っただけでした。夜、落ち着いて法を少し暗記すると、心の重苦しさは知らぬ間に消えていました。

 私は、地元の全体がしっかりと協調できているかどうかという疑問を抱いていたことに気が付きました。なぜなら、同修の各種の執着心と人心をいつも感じていたからです。例えば、顕示心、歓喜心、ことをやりたがる心、グループのためのグループ、協調のための協調、事実に即して議論する中で自分を守り、お互いに信じあえないことで大きなギャップを感じ、外へ向かって探している状況は実にひどいものでした。

 法を学び続けてきた中で、自分の疑心の背景に、法を信じる心が強くないことに気付きました。大法弟子が正念を保ち続けることは宇宙の正の要素の責任ではないのでしょうか? 一切の邪悪な要素を解体しているのではないでしょうか? 大法が生み出した正念はいかなる要素にも動揺しないはずです。私はどのような要素に動揺したのでしょうか? それは自分が人心を持って他人の不足を見ているからでした。

 師父は「修煉状態を理解していないがゆえに、新しい執着を生じさせてはいけません。この執着自体はあなたの修煉の前進にとって巨大な障害でもあります。ですから、この心も取り除かなければなりません」(『各地での説法七・米国首都法会での説法』)とおっしゃいました。師父は、大法弟子が常人社会で俗世を離れずに修煉する形式を定められました。大法弟子が修煉し完成した部分は、時間制限のない別空間に隔離されるので、表面では一貫して人が修煉している状態になります。このような修煉状態の下で、修煉者として最も重要なことは内に向かって探し、逆の道理の中で正しく問題点を認識することです。

 私は長期にわたって存在する問題点に気が付きました。いつも同修が正念を持って自分に現れた困難や出来事に対処することを望んでいます。そうならなければ、自分への妨害だと感じています。実際、その時には妨害の原因が何であるかを考えるべきで、なぜ気に入らない人がいるのか、どんな心が動揺しているのか、なぜ妨害を怖れるのかを考えるべきです。心の中に嫉妬心、闘争心、不平を言う癖、自分の利益を損なうことを恐れる心、他人を警戒する心が存在しているのです。実際、骨の髄まで自我を守る心があり、それは法を確信していないからなのです。

 もう一つ存在する心があります。一部の同修は徐々に学法グループの交流の環境から離れていますが、私にも同様にその傾向があります。なぜなら、この修煉環境の群れの中で争い、途中で投げ出して頬かむりをすることがたくさんあり、心の中のたくさんの問題点に対して回答が得られないからです。したがって、どうにも仕方がないと考える心が現れてしまうのです。

  師父は私たちに大きなグループに戻り、地元の全体の環境から離れないように要求されたことを思い出します。そこで何度も「大きなグループの学法交流に参加しよう」と、自分に言い聞かせましたが、師父がなぜ私たちにこのようすることを要求されたのかを深く考えませんでした。いま思い出したのは、師父は私たちに真の修煉者になり、矛盾から逃避せず、問題に出遭ったら内に向かって探し、全体でよく協調し合い、大法のために責任を持つことと、大法弟子の全体のために責任を持つことを要求されているのです。

 この文章は、私の最近の浅い認識です。

  2009年7月28日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/7/21/204939.html