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しっかり学法し、真相を伝え、衆生を救い済度する(二)


文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)

  慈悲の心で同修に対応する

  「同修」という言葉の意味は並外れており普通ではありません。私たちは同じ大法を修め、同じ師父の元で学んでいます。これは本当に万古の機縁で、千万年を待ったのちに、今生私達は同修となり、それは容易なことではありません。私たちは慈悲の心で衆生に対応していますが、同修に対してはなおさら慈悲の心で対応しなければなりません。

  慈悲の心で同修に対応することは師父の法に基づいて行うということであり、周囲のすべての良い面を見ることです。私は、自分が常人の行為、常人の心、世間の情に影響されないように、まず自分をしっかりと修め、物事に対して内に向って探さなければならないと悟りました。内を修めて、自分を鍛えて高め、善の心を修め、慈悲の心で周囲のすべてに対応して再び周囲の人を見たときに、良いところがとても多いことを発見出来るのです。つまり問題を見る基点が根本から変化したからです。

  ここ数年の修煉を思い返してみると、大法を基点にした時には如何なる問題も解決することができました。同修が悪いのではなく問題はすべて自分の心にあります。他人に対する態度は自分の修煉状態の反映です。例えば年を取った父(同修)は今年88歳の修煉者なので、常人の老人とは違うのだから、杖を使わない方が良いと思っていました。また、父は薬を何回か飲みましたので、「長年修煉しているので、体はすでに常人の身体ではありませんよ」と何回か指摘しました。杖を使ったり、薬を飲んだりすべきではないという意味でした。心の中ではずっと気になっていて、彼を変えたいと思っていました。本当に内に向って探して修めたとき、それは自分の不足であることに気づきました。

  父の態度は自分の何かの人心のためから来ているのだと解りました。一つは私が常人の情を放下できていないために、自分の父だからという思いが何とか変えようという情として出てしまいました。これが他人の同修ならそんなに深く考えませんでした。二つ目は師父と大法に対して信じる思いが足りないのです。考えてみれば2001年〜2003年の間に自分が修煉を中断したときも、多くの栄養食品を摂っていました。薬であっても栄養食品であっても同じことで、それで体を変えようとしました。父と同じではないでしょうか? 実は自分に執着心があるのです。常人の心が次第に放下できた時に全てが変ります。今の父の変化はとても大きくて、真相を伝える事もしっかりできています。

  同修に何か問題があれば誠意をもって指摘することです。師父は私達に模範を見せてくださっています。それを学ばなければなりません。師父は慈悲の心で衆生に対応しておられます。私達も師父を見習い、次第に慈悲の心で衆生に対応することです。師父は一つの生命の全過程を見て、良い面だけを見ておられます。

  従って私たちは、まだ出て来ない同修に対しては、根気良く彼らに師父の経文、資料を届けて、彼らと交流し合い、万古の機縁を大切にすべきです。交流した後に新たに学法の会に戻る同修もいますが、何回交流しても出てこない同修もいます。あきらめないでください。師父が管理しておられるので、私達は誠意を持ってやればいいのです。私達は慈悲の心で他人に対処すべきです。

  学法の時眠くなり、正念を発するとき手が倒れている同修、なかなか口を開いて真相を伝えられず、チャンスを逃してしまう同修、わが子への情を放下出来ない同修、これらは、実は自分自身の執着です。慈悲の心を修めて再び周りの同修を見た時、みな素晴らしく見えます。自分が見た同修の気になる言動は、本当に内に向って探せば全て自分の中の取り除かなければならないものだと気づきます。修煉の過程は常人の心を放下することだと深く悟りました。今まで、自分が他人より良くて、他人の欠点、良くない面しか見ていませんでした。実は自分を守るという旧勢力の理に適ってしまい、これは旧宇宙の理です。この人心は本当に山のように高くて大きいのです。

  師父の大法に基づけば、試練を耐えるたびに、師父は次第に私達のよくないものを取り除いてくださいます。耐えた分だけ取り除いてくださいます。「皆さんに一つの真理をお教えしましょう。絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」(『転法輪』)を、更に深く認識できました。

  家庭の中で慈悲の心で身内に対応する

  修煉の過程では、家庭は基本的な環境の場です。私はすでに定年退職しており、たくさんの執着心は家庭の中で修めて取り除いたのです。修煉を始めるとすぐに問題が出てきて、いつも自分が正しくて、妻(同修)は自分を妨害していると思っていました。「あなたも修煉者なのに何故私にこのように対応するのですか?」 彼女は私と如何なる問題に対してもいつも対立します。しかし、彼女は私の業力を転化させようと手助けをしてくれているのだと学法によってわかり、自分を修めなければならないとわかりました。しかし問題が突然現れると心性を守りきれません。しかし大切なことは、そこで耐えなければならないとわかりました。時には、表面で忍んだように見えますが、内心は忍んでいないのです。妻がよく言います。「あなたはまた怒ったのですか? また機嫌が悪くなったのですか?」 これは口先だけで忍ぶと言っていても、心の中はやはり放下できていないからです。現在では、私のこの人心が次第に磨かれて、次第に人心は取り除かれていると思います。

  私に慈悲心が出てきた時、情況は根本的に変化しました。妻も60歳くらいで、毎日大きな荷物を背負って、市場へ商品を届けるのはとても大変なことなので、私が家で家事をたくさん手伝うべきと思うと、本当に状況が変わりました。例えば、私は商品の配達や仕入れを頼まれれば喜んで行きます。真相を聞きたい縁のある人に会うことが出来るからです。この全てはきっと師父が按排してくださったことだと悟りました。修煉の道に偶然な事はありません。修めることによって人心を取り除かなければならないのです。

  自分が大法に適っていなかったので、師父は数え切れない機会を按排してくださいましたが、私はたくさんのチャンスを逃しました。現在物事に遭ったとき本当に内に向かって探すことができて、法に対してねじれる事が少なくなり、心性も高まりました。

 個人の認識では、私たちは師父と一緒に家に帰ることはここに来る目的の一つに過ぎません。師父を助けて法を正し、法輪大法は正法であることを実証し、衆生を救い済度することが最も重要であって、これが世の中に来た最も重要な目的であると思います。師父は衆生を慈しんでおられるので、私たちも周囲のすべての衆生を慈しまなければなりません。慈悲心が修めて出た時、本当に1分1秒もとても大事だと感じます。すべての衆生を救い済度すべきだと思います。同修と家族に対して、彼らの良い面を見るべきです。師父は「本当に大いなる慈悲を持つことができれば、間違ったところはきっと改められます」(『二〇〇三年旧正月十五日の説法』)と言われました。

 まだ同修のどういう不足に執着するのでしょうか? 私たちには他人を慈しむ心があり、彼らが良くなるようにと思う心があり、同修を助けて、衆生を救い済度する心があります。同修でも常人でも衆生でも、すべて師父が見ておられます。同修の言行、常人の態度は、すべて師父の按排であって、すべて私達の執着心からきているので、内に向って探して修める最もよいチャンスで、大切にすべきです。常人、同修、彼らの態度にもすべて原因があります。自分を修めることです。自分をしっかり修めることで、ようやく衆生を救い済度することができます。すべての機会を大切にして真相をはっきりと伝え、衆生を救い済度しましょう。

  私はまだしっかり修めていないので、交流で同修が慈悲の指摘をしてくださることを願っています。

 (完)

  2009年8月1日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2009/5/10/200510p.html

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