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謙虚になることについて

—「謙虚になる」を読んで感じたこと


文/中国の大法弟子

(明慧日本)第39期『明慧週刊』でアメリカのある同修が書いた「謙虚になる」を読んで、とても同感しました。本当に徹底的に私を理解した人が私のために発表した文章のようでした。「長い間、自分が何かに困惑しているようでしたが、修煉の道で、自分のとても頑固な執着をはっきりと意識することができました。その執着は自分を人より高い位置に置き、高い所から下を見ているのです。本当にみんなが酔っていても、自分だけが醒めているかのようで、他人や同修と接するとき、一つの考え、一念の中で意識することができない要素が潜んでいます」(「謙虚になる」の原文)。

 「態度や言動で、自分を中心に考え、自分が正しいと思い、自分流のやり方を通し、他人を尊敬せず、ほら話をするのが好きで、空論を並べ自分を引き立たせ、他 人を見下し、いつも他人の欠点を見て、いつも自分が他人より優れていると考え、他人を評論するのが好きで、自分の不足を探すことを考えませんでした。たま に他人のよい話をしても、心の中で常に自分が他人よりもっと優れていると思っているのです。この執着心に動かされて、理性を失い」(『謙虚になる』の原文)。

 私たちが中国大陸人であることに加え、共産党の「偉光正」(自分が最も偉く、光栄で正しいという見方)の邪説の悪習に染まり、変異した要素がもっと目立つことになり、不合理でも争ってしまいます。師父が言われるように、自分が早く車を運転しても、他人が見ないからだと指摘するようです(原文ではない)。トラブルに遭ったら本能的に責任を回避し、へりくつを並べ立てるのです。ある人は自分がへりくつを並べ立てていることに気付くのですが、立ち居振舞いは自分が絶対に正しいと思い、自分の欠点を見ないのです。

 世の中で、この現象は普通です。修煉し始めてから、自分が意識して変えた部分は少なくありませんでした。しかし、骨の髄から形成した観念は根強く、簡単に捨てることができませんでした。この観念はグループ修煉に現れると、同修とうまく協力しない(うまく協力したいという思い気持ちはある)、また根本的に協力せず、自分に執着し、他人が間違っていると決め付け、同修が自分にあれこれと指図すると、くやしい思いをするのです。

 特に、私たち中国大陸で修煉している教師は(もちろん数が少ない)仕事をするとき、一般的に生徒に信任され、尊敬され、保護者に信用され、尊敬されています。もし仕事で一定の成果をあげている人なら、もっとこのような変異な考えが容易に現れ、長くたつと、意識しないまま自然に現れます。

 たとえば、ある同修の教育レベルは低く、法を読むとき、文字を間違えると、自然に教えるべきですが、教えるとき、高い所から下を見るような態度になるのです。ある同修は、グループ学法をするとき、勝手に話をし、歩きまわり、大きな物音をたてます。こんなとき当然善意を持って指摘すべきですが、指摘するときいつも責めてしまいます。

 極めてまれな事ですが、男女の情の面で正しく処理できず、家庭が崩壊し、彼また彼女たちの修煉と生活に困難をもたらし、ある同修は家庭で困難に直面しています。このような同修は助けてあげたいのですが、常にその同修たちに対し怒りを感じるのです。師父は慈悲です、できる限り時間を延長して、たくさん衆生を救い済度したいとおもっておられます、師父はどんな人でも済度されるのです。それに比べると、その困っている人たちは私たちの同修であり、このように対処するのはどこに善の心があるのでしょうか? これで同修を助けられるのでしょうか? これは同修を下に押しているのです!

 今、私は次のように悟りました。一人一人の執着はそれぞれ違います。ある同修は男女間の情を捨てることができ、男女間の情を捨てることができない同修をとても不思議に感じるかもしれません。ある同修はいつもへりくだり、他人を優先する同修が自分に執着し、自分を高い所に置き、高い所から下を見るような同修を、とても不思議に思うかもしれません。ある同修は正念がとても強く、真相を伝え、三退を進めるときに恐怖心がない同修は、恐怖心が重く表に出ない同修を見るととても不思議に思うかもしれません。ある同修は金銭に執着しない同修がお金を稼ぎ金持ちになる同修を見るととても不思議に思うかもしれません。これらの不思議に思う気持ちはすべて他人の執着に執着する心であり、すべて捨てるべき心です。

 そのため、私のようにこの種の執着心がある人間は無意識に同修の間に距離を置きやすく、師父の正法を手伝い、衆生を救い済度する大事なことに影響を及ぼすのです、この罪はとても大きいものです。修煉してこんなに時間がたつのに、自分がこんなに恐ろしい境地にいるとは知りませんでした。

 どうすればよいのでしょうか? 同修は文中で「アメリカ人が子供を教育するとき、保育園のころから子供に他人を称賛することを教え始めます」(「謙虚になる」の原文)と書いてあります。私は保育園のころから始めるしかなく、同修の良い所をたくさん見て、多くの同修の輝くところに気づくべきです。ゼロから他人をほめる言葉を学び(当然勝手に褒めるのではない)、たくさん同修をほめることを学ぶのです。「これは私たち修煉者にとって、大いに参考になります。他人の長所を見ることができるのは、他人を高い位置に置くことができるからです」(「謙虚になる」の原文)。

 同修を多く励まし、善意を持って同修の不足を指摘すべきで、同修たちと一緒になり堅固なグループを形成しましょう。

 自分の次元の悟りで、間違っているところがあれば、慈悲なる指摘をお願いします。

  2009年8月7日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/8/1/205498.html

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