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常人の心を放下して着実に修め続ける


文/北米の大法弟子

(明慧日本)何年か前に妻と餃子を作っていたときの話ですが、妻は皮を作り、私はその皮で具を包んだ。私が「皮が小さいよ」と文句を言ったら、妻は「あなたが具を入れ過ぎたからよ」と言い返した。日常的な普通の会話だったが、深く印象に残っている。この会話は修煉の面で大きな問題があるからだ。それは、無意識に自分を守ろうとし、相手のせいにしようとする考えがあるからだ。

 修煉する前に、ガリヴァー旅行記というイギリスの小説を読んだことがある。リリパット国は二世代に渉り隣国のブレフスキュ国との交戦下にあった。戦争の理由は、卵の殻の正しい剥き方は大きな方から剥くか、小さな方から剥くかについての意見の違いに由来する。修煉後、常人はまさに小説に書いてあったように自分の観念に左右されて、争い続けることが分かった。

 餃子の話もその考え方の現れである。問題が起きたらまず相手に責任があると考える。このような考え方は現代人の共通の癖と言ってよいだろう。修煉者でさえも、このような考え方をする人は少なくない。大法弟子のチームワークがうまく行かない場合、大体このような自己執着の考え方によるものである。

 私は、修煉する前には名利に淡泊だった。世俗に染まらないという潔癖さがあったが、修煉後、この潔癖さも傲慢だったり、自分勝手だったりと強い私心を持っているせいで、無意識に自分を守ろうとしていることを認識した。また、この潔癖があったため、内に向けて自分を修めるより、人の欠点に目を向け、人のミスを寛容することができなかった。そのために自分を高めるチャンスをいくつも見逃してきた。 

 本当の修煉とは、無条件に内に向けて自分自身を探さなければならない。心性を高めるチャンスは家庭内や、職場、常人社会、または大法弟子同士の中にもある。どんな時でも修煉者であることを意識し、法に遵わなければならない。ある時、地域のあるプロジェクトの協調人が更迭となった。新しい協調人は人心を多く持っているので、協調の役目を果たせるかどうかと私は不信を感じた。しかし、よく考えてみるとこの不信感は間違っていたのだ。師父はすべての弟子の成功を期待しておられる。 新しい協調人の状態よりも、私の一念こそこのプロジェクトに難を加えた。私の不信感は他の空間ではよくない物質になり、プロジェクトを妨害しているからだ。もし多くの修煉者が同じような不信感を持っているなら、プロジェクトは始まる前に、すでに私たちの人心によって苦境に立たされるのだ。

 この件をよく反省し、私はすべての考え方を改めて修めなければならない重要性をさらに認識した。また、以前意識できなかった不足も分かるようになった。それは、口には出さないが、 内心では他の修煉者を批評したりすることだ。法の基準で判断するのではなく、自分の観念で判断した場合、全体の協調に影響を与え、いい効果は得られないのだ。

 師父は「着実に修め続けることは、一人一人の大法弟子に対する長期に亘る試練なのです」(『精進要旨』「常人の心を放下して着実に修め続ける」)と教えておられます。着実に修め続けることは法の要求である。確かに、時間が緊迫して、やらなければならないことが多い中で、気持ちを緩めてしまい、法を実証することをやっているからと言って、着実に修めなくなることがあるかもしれない。真相を伝えることに追われ、まるでその仕事が修煉の代わりに心性を高めることができるかのように、人事のように自分自身の修煉を緩めてしまうことが普遍的に存在していることがわかった。

 師父の経文『祝辞』では、法を正すことも「邪悪がおしまいになり、環境が変わりました」の段階に入ったと書いてある。新たな環境に直面して、私たちはもっと自分を修め、強い正念で自分の使命を果たすべきである。

 2009年8月10日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/8/4/205879.html

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